科学史の目指すところ

ここでは、科学史の研究が一般に何を目指しているのか、またそれが行き着く先はどこなのかということについて、 僕の思うところを書いてみます。

科学の歴史的展開

「科学史というのはいったい何をするものなのか?」という質問に対してまず考えられる答は、 科学の歴史的展開を明らかにすることではないかと思います。

あらゆるものがそうであるように、科学にも歴史があります。 現在僕たちが知っているような科学が昔から存在していたわけではないということは、 たとえば江戸時代の人々が実験室で薬品の化学分析をしていたとは思えない、 ということからも想像がつきます。 ではいったい、いつ、どこで、どのようにして、科学は今あるようなものになったのでしょうか。 このプロセスを解明することが、科学史を研究するということの第一の意味だろうと思います。

いま、「僕たちが知っているような科学」と言いましたが、 ここでの「科学」という言葉は非常に広い意味で使っています。 科学の具体的な知見(水は水素と酸素からなる分子である、植物は光合成をしてエネルギーを獲得している、etc.)はもちろんのこと、 科学研究を行う方法(顕微鏡で観察する、重量を精密に測定する、方程式を立てて問題を解く、etc.)や、 さらには科学者の所属・身分――今でこそ大学教授を想像しますが、昔からそうであったわけではありません――など、 科学的知識の内容と科学研究のあり方そのものが、歴史を通じて大きく変化してきました。 そうしたすべてを指して、「科学の歴史的展開」と言っているわけです。

ところで、僕は科学史について語るとき、科学の「発展」「進歩」といった言葉をなるべく使わないようにしています。 これには、大きく言って二つの理由があります。

まず、科学の歴史の中には、「よい」方向に進んだとは言い切れない場合がたくさんあります。 20世紀初頭になって飛躍的に進んだ原子と原子核についての研究が、結果として原子爆弾の開発につながったことに象徴されるように、 科学研究そのものが「よい」方向に進むことが、必ずしも一般に「よい」結果を生まないこともあるわけです。

次に、科学研究の中でさえ、現在「よい」と思われていることを昔の人も「よい」と思っていたとは限らない(およびその逆)という問題があります。 かつて積極的に進められていた研究の方向性が、後の時代になって否定されるというのはよくあることです。 占星術や錬金術などはその代表的な例と言ってよいでしょうし、 現代の科学研究においても、当初は有望と思われた理論や手法が案外うまくいかなかったり、 忘れられていた発見やアイディアがずっと後になって再評価されるということがあります。 何が進歩であって何がそうでないのか、というのは、意外と区別するのが難しいのです。

科学史が対象とするのは、こうしたさまざまな「よい」「悪い」をひっくるめた全体であり、 このことを指すには、「発展」「進歩」よりも「歴史的展開」のほうがしっくりくると僕は考えています。

時代を理解すること

科学史が対象とする領域は実に広大ですが、実際に科学史の研究をするときには、 特定の時代や地域にしぼって行うのがふつうです。 研究のために必要とされる言語が違ってくるというのもありますが、 それ以上に、その時代の「常識」を知らないと研究できない、ということが大きいように思います。

たとえば僕は18世紀ヨーロッパのことを研究していますが、 この場合、当時の学術用語であったフランス語やラテン語の知識がまず必要となります (現在の英語に相当するのが、この時代にはこうした言語でした)。 しかし単純に文章が読めても、そこで言われていることが何なのかをわかろうと思えば、 その当時の人々にとっての「常識」を知らなくてはいけません。 僕の場合は物理学・数学関係のことがらを研究していますので、 この分野では当時何が知られており、どのような考え方で研究が進められていたのかを知ることが重要です。 ところで、これを身に着けるには実際に研究の経験を積み重ねていくほかありません。

いったい、この地道な「修行」は何を目指しているのでしょうか。 一言で答えるなら、研究している時代を理解すること、と言うべきでしょう。 わざわざ過去を研究する一番の動機は、その時代を知りたいということに尽きるように僕は思います。

科学史に限らず、歴史の本を読むと、過去と現在の似ているところ・違うところに気付かされます。 どの時代も、少しずつ似ていて、かつ似ていないのです。 科学の場合、時代が古くなるほどに現代のものとは似つかなくなっていきますが、 それぞれの時代には、それぞれの「科学」が存在しています。 同じヨーロッパでも、ルネサンス期にはルネサンス期の科学が、近代には近代の科学があります。 江戸時代の日本には江戸時代の日本の科学があり、 中世のイスラーム世界には中世のイスラーム世界の科学があります。 そういったさまざまな時代・地域の「科学」を、その時代・地域に即して理解したい、 そういう欲求が、科学史を実際に研究する際の重要な動機であり、かつ目指すところではないでしょうか。

現在を批判的に捉えること

過去のある時代を理解することは、同時に、現在を批判的に捉えることにもつながります。 過去のことがわかってくると、それとの比較で、いまという時代の特徴が見えてくるからです。 ふだん当たり前だと思っていたことが過去にさかのぼると案外そうでもない、という経験は、 一度してしまうと、現在を見るときの目線をいやおうなしに変えてしまうという性格を有しています。

たとえば、科学研究に携わっている人に昔の科学者の話をすると、よく、 一人の人物が実にさまざまな分野のことを研究していて驚いたという反応が返ってきます。 有名どころで言うなら、ニュートンは万有引力理論に基づく天体力学や、光と色に関する実験、微積分法を始めとする数学の分野で重要な業績を残したほか、 錬金術と化学に関する研究や、さらにはキリスト教の聖書解釈に関する研究にも相当入れ込んでいました。 これはニュートンが天才だったからではなく、当時の研究者であればこのくらいの関心の広さはむしろ当然だったように思いますが、 現代の科学者=特定分野の専門家にしてみれば考えられないことであるに違いありません。 どちらが研究者のあり方として好ましいか、ということはさておき、 過去を知ることが現状を批判的に考え直すための視点獲得につながる、というのは確かです。

なお、誤解されやすい点ですが、「批判的」というのは「非難するような態度で」という意味ではありません。 そうではなく、他人の言うことを鵜呑みにせずに一度自分なりに考えてみる、ということです。 そうやって考えてみた結果として、よいと思う点は伸ばし、悪いと思う点は直していく。 当たり前すぎることですが、結局のところそれが、歴史に学ぶということの意味ではないでしょうか。 そしてこれは当然、科学史の場合にも当てはまります。

意見の分かれるところかもしれませんが、僕自身は、 いくら過去を明らかにしても、これから進むべき道が自動的に明らかになることはないと考えています。 それでもなお、科学の歴史的展開を明らかにし、特定の時代を理解することを通じて、 科学史は現在の科学を批判的に見るための視点を提供することができます。 というよりむしろ、好むと好まざるとにかかわらず、必然的にそういうことになると言うべきでしょう。 そしてこの点は、科学を対象とするほかの人文・社会科学系の学問(科学哲学や科学社会学)とともに、 科学史の背負っている宿命ではないかと僕は思います。

2011/5/8