科学史の肖像

Leonhard Euler

レオンハルト・オイラー
Leonhard Euler

1707年4月15日生-1783年9月18日没

18世紀ヨーロッパが生んだ史上最大の数学者・数理科学者。 書いた本や論文は生前に出版されただけでもおよそ560編に上り、数学・物理学の発展に多大な影響を与えた。

ドイツ系スイス人だが、22歳のときに故国を離れ、ペテルブルク(ロシア)とベルリン(ドイツ)の科学アカデミーで活躍した。 温和で実直な人柄であったらしい。子ども好きでもあったようで、生涯に全部で13人の子を設けたが、そのほとんどは長生きできなかった。

解析学・代数学・整数論といった数学分野で数えきれないほどの業績を残したのに加え、 古典力学や光の波動論など、物理学分野でも重要な仕事が多数ある。 オイラーの名前を冠した方程式などはたくさんあるし、 和の記号Σや虚数単位i、自然対数の底eといった記号もこの人物に由来する。

生涯

オイラーは、スイスのバーゼルで生まれ、その近くのリーエンという村で少年時代を過ごした。 父親はプロテスタントの牧師で、数学にも興味を持っており、オイラーはこの父から最初の教育を受けた。

バーゼル大学に入学したオイラーは、ここでヨハン・ベルヌーイの数学講義を聴き、 牧師になるのをあきらめて本格的に数学者を目指すようになる。 最初の論文は18歳のときに書かれ、20歳のときには早くも、パリの科学アカデミーが出した懸賞問題に応募して入選している。 これと同じ年、オイラーはバーゼル大学に職を得ようとしたが、こちらはうまくいかなかった。

ちょうどこの頃、ヨハン・ベルヌーイの息子でオイラーとも仲のよかった二クラウス2世とダニエルの兄弟が、 新しくできたロシアのサンクトペテルブルグ・アカデミーに招かれ、旅立っていった。 オイラーもこの友人たちのつてでアカデミーにポストを得、1727年(このとき22歳)にペテルブルグへと移住した。 オイラーはこの後、二度と故郷に戻ってくることはなかった。

ペテルブルグで、オイラーは本格的に数学に関する研究を始め、多くの論文を発表し始める。 しかしそれだけでなく、アカデミー付属の学校でロシア人の生徒の教育に携わったり、 ロシアの領土の地理調査を行うプロジェクトに関わったりもしていた。

1733年、26歳のときに同じスイス出身の女性カタリーナ・グゼルと結婚、翌年には最初の息子ヨハン‐アルブレヒトが生まれた。 なお、オイラーは生涯に全部で13人の子をもったが、彼自身よりも長生きしたのはこのヨハン‐アルブレヒトを含む三人だけである。

この二年後、オイラーは原因不明の重い病気にかかった。 そして、因果関係ははっきりしないが、1738年、彼は右目を失明した(上の肖像画をよく観察のこと)。

健康が回復した1740年、今度はロシアの政情が不安定になったところへ、 プロイセンのフリードリヒ大王から、改組する予定のベルリン科学アカデミーに加わるよう招きがあった。 オイラーはこれを受け入れ、翌年、家族とともにベルリンへと移住した。34歳のときである。

ベルリンで、オイラーはアカデミーの数学部門長として中心的な役割を果たした。 その職務と並行して、この時期には文字通り膨大な量の論文を書き、数多くの著書を出版している。 また、アカデミー内外の学者たちと、数学に限らず科学・哲学・神学などをめぐって辛辣な論争を繰り広げてもいる。 ちなみにオイラーは、生涯を通じて敬虔なプロテスタントであり続けた。

1759年にアカデミー総裁のモーペルテュイが亡くなると、オイラーは事実上の総裁としてアカデミーの運営にあたった。 しかし、フリードリヒ大王は後任の総裁にダランベールを招こうとしたため、オイラーとの関係は悪化する。 折しも、古巣のペテルブルグ・アカデミーから戻ってくるよう持ちかけられていたオイラーは、 ついに1766年、ベルリンを去ってペテルブルグに移った。オイラーは59歳になっていた。 なお、ダランベールは結局総裁の地位を断ってパリに留まり、数学部門長オイラーの後任にはトリノからラグランジュが迎えられた。

ペテルブルグに戻った後、オイラーには不幸が続いた。 残っていた左目の視力が著しく低下し、手術を受けたものの、1771年(64歳)には彼は完全に失明した。 この少し前には、火事でほとんどの財産を失っていた(幸い、女帝エカテリーナの補償によって新しい家を建てることはできた)。 さらに二年後には、妻カタリーナにも先立たれた。 なお、このさらに三年後、オイラーはカタリーナの異母妹ザロメ‐アビガイルと再婚している。

驚くことに、失明した後もオイラーの研究活動は一向に衰えなかった。 息子や弟子たちの協力のもと、オイラーはさらに論文や著書を出し続けた。

1783年9月18日も、オイラーは夕方までいつものように過ごしていた。 5時頃に突然、卒中の発作が彼を襲った。オイラーは意識を失って倒れ、そのまま夜の11時頃に亡くなった。76歳だった。 弔辞を述べたパリ科学アカデミー書記、コンドルセの言葉を借りれば、彼はそうして「計算することと生きることをやめた」のだった。

業績

オイラーの生前に出版された論文・本は、全部でおよそ560に上り、出版されないままになっていた原稿も数多い。 1911年に始まった『オイラー全集』(以下『全集』)の出版は100年近く経った今も続いており、既に70巻を超えている。

いわゆる純粋数学の分野から見ていくと、まず、オイラーが整数論や代数学の分野で後世に残る仕事をしたことはよく知られている。 この分野の主著は『代数学完全入門』(1768-69)で、これは文字通り初心者向けの説明から始まるが、最終的には非常に高度なところまで到達する。 有名な、フェルマーの最終定理のn=3の場合(x3+Y3=Z3をみたすゼロでない整数の組は存在しない)の証明もこの中にある。 また、幾何学に関連する領域でも、「ケーニヒスベルグの七つの橋」を一筆書きする問題などは一般によく知られている。

数学の分野でオイラーが歴史上重要な人物だということは、今日使われている数学記号の多くが彼に由来していることからもわかる。 和の記号Σがそうだし、虚数単位iや自然対数の底eもオイラーが最初に使い始めた。 ちなみに、オイラーの公式と呼ばれる有名な関係 eπi=−1 は、彼が21歳のときに発見された。

同じく、関数を f(x) のように書く表記もオイラーによるが、そもそも関数というものを解析学の中心に据えたのがオイラーだった。 オイラーはそれまでの数学者たちの研究成果を総合し、『無限解析序説』(1748)、『微分計算教程』(1755)、『積分計算教程』(1768-1770)という三部作にまとめた。 解析学はオイラーの主要な研究領域であり、『全集』第1シリーズ(数学関係の本・論文)全29巻のうち、17巻が解析学の内容になっている。

オイラーの解析学の威力は、特に力学の分野で示されることになった。 この方面でのオイラーの代表作としてまず挙げられるのは『力学』(1736)であり、今日言うところの質点の力学を扱ったものである。 また、それから30年近く経って出版された『固体あるいは剛体の運動理論』(1765)では、今日に通じる剛体の力学が包括的に展開された。 さらに、1757年に出版された三つの論文は、同じく流体力学の基礎を据えるものだった。

力学の成果はさらに天文学(天体力学)とも直結する。 惑星の三体問題、例えば太陽と地球から影響を受ける月の運動を研究する中で、オイラーは微分方程式を近似的に解く手法を発展させた(摂動論)。 『月の運動理論』と題される本を、オイラーは生涯に二度書いている(1753および1772;アプローチが異なる)。 なお、『全集』の中で力学と天文学関係の本・論文に当てられているのは第2シリーズだが、これは全部で31巻からなる。 実はこちらの方が、純粋数学に相当する第1シリーズよりも数が多い。

たぶんあまり知られていないが、オイラーは光学の分野でも多くの研究を残している。 この領域での代表作は『屈折光学』(1769-1771)だが、これを含めて、オイラーの光学関係の書き物は『全集』第3シリーズ(物理学その他)12巻のうちの7巻を占める分量である。 オイラーは、ニュートン流の光の粒子説を認めなかった。 その代わり、光をエーテルの振動と考えて、それに基づく理論を展開した。 この理論は当時、かなり影響力を持っていたものである。

宇宙がエーテルで満たされているというアイディアは、オイラーの物理学全般の基礎となっている。 光だけでなく、電気、磁気、重力といった現象もこのエーテルの働きによって説明できるとオイラーは考えた。 一般向けに書かれた『ドイツのある王女への書簡集』(1768-1772)でも述べられているこうしたアイディアは、しかしながら、成功することはなかった。

その他にも、オイラーはまだ様々な本・論文を書いた。 その中には音楽理論や神学の本さえ含まれている。 オイラーの業績の全体像は、今日でもなお明らかになっていない。

参考資料

2009/1/7; 2011/4/15
(c)ARIGA Nobumichi
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