科学史の肖像

Bernard de Fontenelle

ベルナール・フォントネル
Bernard le Bovier de Fontenelle

1657年2月11日生-1757年1月9日没

17世紀と18世紀をつなぐフランスの文筆家・思想家。 作家として出発したが、自然学や数学にも関心を寄せ、一般向けの著述を通じて科学啓蒙を展開した。

パリ科学アカデミーの終身幹事を長年にわたって務め、専門的な論文の解説や著名な学者の追悼記事を多数執筆した。 これらはアカデミーの紀要に掲載されている。

『世界の複数性についての対話』(1686)はコペルニクスとデカルトの宇宙論をわかりやすく説明し、ベストセラーとなった。 科学関係の著作としては、ほかに『無限幾何学原論』(1727)や『デカルトの渦動説』(1752)といった著作がある。

生涯

フランス北部の都市ルーアンで、弁護士の息子として生まれる。 母方のおじは劇作家・詩人として歴史上有名なコルネイユ兄弟で、フォントネル自身もまずは演劇の脚本で身を立てようとすることになる。

地元のコレージュ(中学・高校相当)を出たあと、1674年にパリに上京し、本格的に文学の道を志す(17歳)。 1680年に初演された悲劇では散々な失敗を味わうも、あきらめずに文学作品を書き続けた。 その一方、パリの社交界を通じて自然科学や数学を専門とする人々(たとえば、数学者のロピタルや力学研究で有名なヴァリニョン)と知り合うようになると、フォントネルはこの方面にだんだんと惹かれていった。 この関心はまず、1686年(29歳)のときの作品『世界の複数性についての対話』として結実することになる。 これはコペルニクスとデカルトの宇宙論を一般向けに書いたものとして、17世紀末から18世紀前半にかけてのベストセラーとなった。

科学の擁護や宗教の批判といったテーマの著述によって文学界で名声を得たフォントネルは、さらに1699年、パリの王立科学アカデミーの終身幹事として迎えられた(42歳)。 ここでのフォントネルの仕事は、アカデミーの論文集を編集し、それについての解説を書くことだった。 また、会員を始めとする著名人が亡くなったときには、その生涯を振り返って業績をたたえる演説を行った。 それにはたとえば、ニュートンやライプニッツ、スイスの有名な数学者のヨハン・ベルヌーイも含まれている。 フォントネルはこうした仕事を、1740年、実に83歳になるまで、40年にわたって続けた。

なお、科学アカデミーの仕事と並行して文学的な作品も引き続き執筆しているほか、科学にかかわる著作としては『無限幾何学原論』(1727年)や『デカルトの渦動説』(1752年)といった著作を残している。

最晩年まで学者たち(文系・理系問わず)と交流を持ち続けたフォントネルは、最先端の科学の発展を半世紀以上にわたってその目で見続けた人物と言えるだろう。 亡くなったのは1757年になってすぐ、実にあと一ヶ月ほどで100歳になろうかという日のことだった。

業績

フォントネルの業績は、今日言うところの科学啓蒙に求められる。 その代表作となった『世界の複数性についての対話』では、「私」(哲学者)と「G侯爵夫人」との対話という形をとって、当時その地位を固めつつあったコペルニクスの地動説と、デカルトによる惑星運動の説明(渦動論:宇宙は微細な流体で満たされていて、その円運動によって惑星が運ばれるとする説)が説かれている。 ただし、これは単に科学的な内容をわかりやすく説明しているのではない。 対話はしばしば脱線し、また想像力によって話が膨らんでいく――たとえば、地球以外の惑星には人間がいるのかどうか――という具合になっている。 ユーモアとウィットに富んだこの作品が作者の生前だけで33回も版を重ねた、というのもわからないではない。

また、フォントネルはしばしば、科学の発展とそれによる人類の進歩という思想を打ち出した最初期の人物であると言われる。 そうだとすれば、よくも悪くも、啓蒙主義の時代から20世紀に至る「科学主義」に先鞭をつけたという意味で重要な位置を占めることになるだろう。 ただ、その人物が晩年までニュートンの万有引力理論に反対し続けたという事実は、フォントネルがただ科学の発展を盲目的に追いかけていたわけではないということを示しているようにも感じられる。

フォントネルは確かに、科学者にはなれなかっただろう。 それにもかかわらず、もしこの人物がいなかったとしたら、その後の科学のあり方は案外違っていたのかもしれない。

参考資料

2010/6/20; 2011/9/18 (c)ARIGA Nobumichi
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