科学史の肖像

Colin Maclaurin

コリン・マクローリン
Colin Maclaurin

1698年2月?日生-1746年6月14日没

ニュートンの後継者と見なされるイギリスの数学者。 主にスコットランドのエディンバラで活動した。 流率法(微積分)の発展に貢献するなど、18世紀のイギリス科学界を代表する一人。

ニュートンの知遇を得てエディンバラ大学の数学教授となる。 法務次官の娘であった妻とのあいだには7人の子供がいた。 政治的な争乱に巻き込まれて健康を害し、48歳で亡くなった。

主著『流率論』(1742)では、ニュートン流の微積分である流率法を厳密にかつ体系的に提示しようとした。 ほかに、死後出版された『アイザック・ニュートン卿の哲学的発見の解説』(1748)が有名。

生涯

牧師の三男として生まれる。 父は生まれてすぐに、母も9歳のときに亡くなったため、父と同じく牧師であったおじがその後の面倒を見た。

11歳でグラスゴー大学に入っているが、これは当時の学校制度から言えば特に驚くことではない。 在学中にエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』を読み、また数学教授シムソンに接して、数学への関心を深めた。 わずか14歳のとき、重力に関する論文で学芸修士号(Master of Arts)を取得。 その才能は広く知られるところとなり、アバディーンのマリシャル・カレッジ教授に任命されることになった(1717年)。 このときマクローリンはまだ10代だった。

1719年、ロンドンを訪れた際にニュートンに会う。 この年にはロイヤル・ソサエティ(ロンドン)の会員にも選出されている。 1722年には貴族の息子の家庭教師としてフランスに赴くが、その生徒が突然病死したため24年に帰国。 ところがこの不在中に、アバディーンの教授ポストは取り上げられてしまっていた。 だが幸い、エディンバラに移ったマクローリンはニュートンの支援を得、エディンバラ大学に数学教授の職を得ることができた(1725年)。

エディンバラでは、大学での講義のほかにエディンバラ哲学協会(後にエディンバラのロイヤル・ソサエティとなる)の設立・活動に積極的に関わり、スコットランドを代表する学者の一人としてその名を知られた。 私生活では、35歳のとき(1733年)に法務次官の娘アン・スチュアートと結婚し、7人の子供を授かった。

1745年に起こったジャコバイトの反乱の際、マクローリンはエディンバラ防衛のために尽力した。 そのため、エディンバラが占領されるとイングランドへの亡命を余儀なくされる。 エディンバラに戻る機会は比較的すぐに訪れたものの、この一連の出来事でマクローリンの健康状態は悪化しており、帰還後しばらくして彼は亡くなった。 48歳でのこの不幸な死は、イギリス科学界にとって相当の損失だったように思われる。

業績

マクローリンの主著として挙げられるのが、1742年に出版された『流率論』である。 これより前、1734年にバークリが微積分は厳密でないという批判を行っていたが、マクローリンはこれを深刻に受け止め、ニュートン流の微積分である流率法を厳密にかつ体系的に提示しようとした。 それだけでなく、この本では解析学や力学に関わる様々な問題が論じられ、イギリスだけでなく大陸の数学者たちにも少なからぬ影響を与えていたことが知られている。 ちなみに、数学の「マクローリン展開」は彼がこの本で利用した手法だが、これはテイラーの仕事に負うものだった。

『流率論』と並んでよく知られている著書としては、亡くなる数時間前まで執筆されていたとされる『アイザック・ニュートン卿の哲学的発見の解説』(1748年刊)がある。 こうした仕事などのために、マクローリンはしばしば代表的な「ニュートン主義者」の一人と見なされている。

この他にも、マクローリンはいくつかの著書と数多くの論文を発表した。 論文の多くはロイヤル・ソサエティの『哲学紀要』(Philosophical Transcations)に掲載されたが、パリ科学アカデミーの懸賞課題にも応募し、1724年には物体の衝突についての論文で、1740年には潮汐のメカニズムに関する論文で、それぞれ賞を獲得している(後者はダニエル・ベルヌーイ、オイラーとの共同受賞)。

また、理論的な研究だけでなく、天体観測や機械装置の考案なども行っていたと伝えられているし、近年では科学方法論に関する彼の思想にも注目がなされている。 この人物を単にニュートンの後継者として語るだけではおそらく不十分なのだろう。

参考資料

2010/1/31; 2011/9/18加筆
(c)ARIGA Nobumichi
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