科学史の肖像

Pierre-Louis Maupertuis

ピエール=ルイ・モーペルテュイ
Pierre-Louis Moreau de Maupertuis

1698年9月28日生-1759年7月27日没

フランス最初の「ニュートン主義者」と呼ばれた人物。 地球の正確な形状を決定するためにフィンランドでの測量探検を敢行し、ニュートンの説を確証したことで名を馳せた。

港町で商人の家に生まれたが、勉強のために上京したパリで社交界に人脈を作って学者になったという異色の経歴を持つ。 40代半ばでベルリンに科学・文学アカデミーの総裁として招かれ、このときに結婚。 以後、このアカデミーの発展に尽力した。

研究内容としては、力学における「最小作用の原理」の提唱や、遺伝と発生に関する研究(前成説への批判)などがあり、 多くの方面に関心を持っていた。 一般読者に向けた著作もたくさん書いている。

生涯

モーペルテュイは、フランスの港町サン=マロで裕福な商人の家に生まれた。 生涯を通じて何度も、彼はこの故郷に足を運んでいる。

16歳のとき、勉強のためにパリにやってきたモーペルテュイは、特に数学に興味を持つようになった。 またそれと同時に、彼はパリのカフェに出入りするようになり、持ち前の社交的な性格で人脈を広げていった。 これらが奏功して、1723年、25歳のときには、パリ科学アカデミーの会員になることができた。

曲線に関する数学論文をいくつか書いた後、モーペルテュイはバーゼルのヨハン・ベルヌーイ教授のもとへ行き、30歳を過ぎて本格的に数学を学んだ(1729-30)。 このとき知り合ったベルヌーイの息子のヨハン2世は、その後モーペルテュイの親友であり続けた。 パリに戻った後、モーペルテュイは新しい数学(ライプニッツ流の微積分)をニュートンの『プリンキピア』に適用し始めた。 こうした仕事はヴォルテールやシャトレ夫人などの注目を引き、彼らとの交際も始まった。

1735年、パリ科学アカデミーは、地球の形状を測量によって決定するための探検隊を赤道地方と北極圏とに派遣することを決めた。 モーペルテュイは北極圏探検隊のリーダーを務めることになり、1736年5月2日にパリを出発した。 このときの探検隊メンバーには、アカデミーの若手数学者クレローやスウェーデンの天文学者セルシウス(今日では温度計の目盛りにその名を残している)などもいた。 ラップランド(今日のフィンランド)で行われた測量探検は一年強かかり、一行は37年8月20日にパリに戻ってきた。 その結果はニュートンの説を支持するものと受け取られ、モーペルテュイは一躍有名人となった。

プロイセンの新しい国王フリードリヒ2世はモーペルテュイを自国の新しいアカデミーに迎えたがった。 モーペルテュイは1740年にベルリンを訪れたが、国王はまさに戦場で指揮を執っているところだった。 王のところへ向かったモーペルテュイは運悪く敵陣に入ってしまい、拘束されたが、幸い無事に解放されてパリへと戻ることができた。

その後、モーペルテュイはフリードリヒの招きに応じ、1745年にベルリンへと移り住んだ。 これとあわせて、彼は貴族の娘エレオノール・ド・ボルクと結婚している(モーペルテュイ46歳)。 残念ながらこの女性についての詳細は不明で、二人の間に子供はいなかったようである。

モーペルテュイはベルリン・アカデミーの総裁として、自らも研究を続けながら、この新しいアカデミーを有名にすべく多くの著名人を招いた。 しかしながら彼の健康は少しずつ悪化していき、それと同時に、彼が提唱した「最小作用の原理」を巡る一連の論争にも悩まされることになった。 「ケーニヒ事件」と通称されるこの論争では、かつて親しかったヴォルテールからも過激な中傷を受けた。 ちなみにこの時、モーペルテュイを支持した側としては、アカデミー数学部門長のオイラーなどがいる。

1756年、モーペルテュイは病を押してパリへ向かったが、途中で七年戦争が始まってしまった。 ベルリンに戻るために経由しようとしたバーゼルに着いた時には、病状は悪くなりすぎていた。 かつて数学を学んだ土地で、今は親友ベルヌーイの暮らすその家で、モーペルテュイは息を引き取った。 その60年の生涯は、文字通り数多くの変遷からなるものだった。

業績

モーペルテュイの仕事のうちで、今日までその意義を保っているものはほとんどない。 しかしながら、18世紀の科学史において、彼ほど多彩な仕事をした人物も稀である。

モーペルテュイは一般に、フランスにおける「ニュートン主義者」の代表として知られている。 これは主に、地球の形状に関するニュートンの説を測量探検によって確かめたことによっており、その成果を述べた『地球の形状』(1738)はすぐに英語・ドイツ語にも翻訳された。 しかしながら、実のところ彼がこだわったのはむしろ正確な測定であり、ニュートンの力学体系や万有引力説では必ずしもなかった。

ニュートンとの関連で言えば、モーペルテュイはライプニッツ流の微積分を使って『プリンキピア』の問題を論じた。 このことは、『プリンキピア』そのものよりもむしろ、微積分計算をフランスで本格的に広めることに貢献したようである。 モーペルテュイ本人の数学的才能は決して飛び抜けたものではなかったが、彼がいなければ、フランスにおけるこの新しい数学の普及はさらに遅れたかもしれない。

他方で、モーペルテュイは形而上学の分野にも相当入れ込んでいた。 彼の提唱した「最小作用の原理」――「自然において何らかの変化が起こるときには、その変化に必要な作用の量は、可能な限り少ない」という主張――は最初光学の問題との関連で(1744)、次いで一般的な物体の運動に関係して述べられたが(1746)、モーペルテュイはこれを自身の研究活動における最高の到達点とみなしていた。 『宇宙についてのエセー』(1750)は、その仕事について一般向けに書かれた作品である。

※この「最小作用の原理」の具体的内容は、現代の物理学で一般に「最小作用の原理」と呼ばれているものとは異なる。

モーペルテュイはまた、遺伝と発生に関する研究でも有名だった。 この方面では、セミ・ポピュラーな著作『ヴェニュス・フィズィク』(1745;「自然学の女神」とも「官能的な女神」とも訳せることに注意)と『自然の体系』(1751)が代表作である。 彼は当時主流だった前成説(生物は生まれる前から親の中にそのまま存在しているとする立場)を様々な立場から批判し、それに代えて、両親から受け継がれた粒子がその親和力によって集合することで子供が形作られるという説を展開した。 彼の理論はかなり思弁的なものだが、ペットの犬の交配実験や多肢症の家系の分析といった彼自身の研究もその根拠となっている。

モーペルテュイの仕事は、科学と哲学さらには文学さえもがまだ明確に分離していなかった時代を象徴している。 専門的な論文だけでなく、彼は多くのセミ・ポピュラーな本を書き、ヨーロッパ中に読者を獲得していた。 「科学者」と呼ぶには、モーペルテュイはあまりに18世紀的すぎる。

参考資料

この記事で紹介したモーペルテュイの伝記的なことがらは主として次の本に基づく。

モーペルテュイの書いた論文の日本語訳が次の中にある。

2009/1/16; 2011/4/19;8/XX 「参考資料」を改訂
(c)ARIGA Nobumichi
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