科学史の肖像

Karl Pearson

カール・ピアソン
Karl Pearson

1857年3月27日生-1936年4月27日没

統計学が科学として成立するのに大きく貢献した応用数学者。 データの分布や相関などを数学的に分析するための道具立てを多数考案し、 統計を「科学の文法」と位置付けた。

イギリスはロンドンの出身で、ロンドン大学教授を長年にわたって務めた。 若い頃にドイツの思想や文化に傾倒して社会主義者となり、さらに優生学的な関心も持ち合わせていた。

統計学で今日でも使われる、相関係数、カイ二乗適合度検定、積率などの概念装置を多数導入。 「標準偏差」という言葉の生みの親でもある。

生涯

ピアソンの生涯は、統計学に出会う前と後でだいぶ様子が違う。1857年3月27日、ピアソンは弁護士の二男としてロンドンで生まれた。子ども時代は病弱で、16歳のときユニヴァーシティ・カレッジを病気のため退学、療養生活をしながら私塾で学んだという。

1875年(18歳)、ケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学。これ以前に、ピアソンは父の計らいで、ケンブリッジの有名な数学教師ラウスの指導を受けていた。入学後も引き続き数学や物理学を集中的に学んだが、文学や歴史にも非常に関心を持った。この当時の有名なエピソードとしては次のような話がある。当時、カレッジでは古き良き伝統を受け継ぎ、神学の講義と教会への出席が学生に義務付けられていた。ところがピアソンはこれに反発、当局との議論の末、これらの規則は撤廃されたのだった。

ケンブリッジ大学を1879年に卒業した後、ピアソンはドイツに一時留学する。そして翌年11月に帰国すると、今度は法律の勉強を始め、弁護士の資格を得た。とはいえ、実際に開業することはなかったようである。むしろこの時期には、1880年から1886年までキングス・カレッジの奨学金をもらうことができ、自由に好きな研究ができた(羨ましい限りだ)。ピアソンはこの間、ドイツの歴史と民俗、また社会主義の思想について多くの著作を書いている。彼のドイツびいきは相当なもので、本来のCarlからドイツ風のKarlへと改名するほどだった。

社会問題に大きな関心を寄せていたピアソンは、女性問題を議論するための私的なクラブを設立したりもした(1885年、28歳)。このクラブの秘書を務めたマリア・シャープとピアソンは後に結婚する(1890年)。1895年には、息子のエゴンが生まれた。エゴンはやがて、父と同じく統計学者として大いに活躍することになる人物である。子どもはほかに、娘が二人いた。

ピアソンは1884年にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの応用数学・力学教授、さらに1891年には同大学グレシャム・カレッジの幾何学講師となった。この時期には、クリフォードの『精密科学の常識』(1885年)とトドハンターの『弾性論史』(1886-1893年)という二つの本を出版した。どちらも未完のまま著書が亡くなったのを受けての仕事で、相当部分がピアソンの手で独自に書き加えられた。

グレシャム・カレッジでは、初年度の講義の内容として、自然科学の基礎について哲学的な視点で解説を行った。この内容が、翌年『科学の文法』として出版されたものである(1892年)。ピアソンはこの中で、科学の目的は「なぜ」を説明することではなく「どのように」を記述することだと主張した。この思想は、やがてピアソンの専門となる統計学にぴったり当てはまるものだったと言えるだろう。

ここまでのところ、ピアソンは応用数学と科学哲学の分野で一目置かれている若手教授だった。転機が訪れたのは1892年、35歳の年のことである。ユニヴァーシティ・カレッジの同僚になった動物学者ウェルドンが、生物に見られる変異を数学的に分析するため、力を貸してほしいと言ってきたのだ。二人は遺伝に関するフランシス・ゴールトンの研究に刺激を受け、生物の遺伝と進化の問題に対して統計学的にアプローチするという共同研究を始めた。統計学者ピアソンの仕事はようやくここからスタートする。

1894年、ピアソンは『進化の数学的理論への貢献』と題した一連の論文を発表し始める(途中から『進化論への数学的貢献』と改題)。その最後に当たる『その19』が出版されたのは、実にようやく1916年になってからのことだった。この物凄い分量の仕事の中で、ピアソンは今日でも使われる統計学のさまざまな手法を開発し(積率、相関係数、カイ二乗適合度検定など)、後に使われることになる多くの分布関数を数学的に与えた。ちなみに「標準偏差」という言葉を導入し、これをσで表したのも彼である。

面白いことに、ピアソンの目的は統計学そのものにではなく、一貫して生物進化と遺伝の問題を統計的に研究することにあった。1901年には専門学術誌『バイオメトリカ』をウェルドンとともに発刊し(44歳)、編集を続けた。ただ、生物測定学派と呼ばれた彼らの立場が生物学の主流にならなかったのもまた事実である。とりわけ遺伝学者として有名なベートソンと激しく対立し、さらにウェルドンが突然の死を迎えたことで(1906年)、ピアソンは学会の主流からの退却を余儀なくされた。ピアソンはやはり応用数学者であって、生物学者ではなかった。

結果として、ピアソンは生物学にではなく統計学に大きな遺産を残した。ロンドン大学ではウドニー・ユールとアリス・リーを筆頭に多くの弟子を育て、この分野の発展の基礎を作った。今日t分布として知られる分布で知られるスチューデントことゴセットも、一年間ピアソンの下で研究を行い、その成果にたどりついた(1907年)。

1911年にゴールトンが亡くなると、その遺産でユニヴァーシティ・カレッジに優生学講座が設置され、ピアソンが教授に転任する。加えて生物測定学実験所の主宰もしていたピアソンは多忙を極めた。さらに第一次大戦が勃発すると戦時業務にも時間をとられ、研究は予定通り進まなくなった。こうした中、ピアソンは時間を割いて、20代前半の若者から送られてくる手紙と統計学論文の相手をした。けれども不幸な行き違いが重なったことや、さらには両者の性格の違いも災いし、結果として二人は犬猿の仲になってしまった。その若者、後に大物になる統計学者ロナルド・フィッシャーは、世代を越えてピアソンの息子エゴンとも対立することになる(何ともまあ…)。

第一次大戦後のピアソンの経歴には、あまり目立った出来事が見当たらない。ただ、1928年に妻のマリアが他界し、その翌年に同僚のマーガレット・ヴィクトリア・チャイルドと再婚している。この時期のピアソンは、優生学の研究を進めたほか、統計学の歴史について講義を行った。ある意味でこの仕事は、ピアソンの前半生と後半生とが結びついたものと言えるかもしれない。

ピアソンは1933年、実に76歳まで教授職を務めたあと、大学を引退した。ピアソンの講座は二つに分割され、一つを息子のエゴンが、もう一つを天敵のフィッシャーが引き継いだ。亡くなったのはその3年後、1936年の4月27日だが、直前まで『バイオメトリカ』誌の編集を続けていたと伝えられている。

参考資料

日本語で書かれたピアソンの伝記としては、次の本がコンパクトながら詳しい。

ピアソンの著作のうち『科学の文法』には、底本となっている版の異なる二種類の翻訳がある。

2012/7/31
(c)ARIGA Nobumichi
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