科学史の肖像

Andreas Vesalius

アンドレアス・ヴェサリウス
Andreas Vesalius

1514年12月31日生-1564年10月15日没

近代医学を切り拓いたとされる、ベルギー出身の解剖学者。 自ら積極的に人体解剖を行い、得られた知見を優れた図版にして出版することで、 観察に基づいた医学の重要性を訴えた。

解剖学上の主要な仕事は、20代後半のパドヴァ大学時代になされた。 その後は皇帝の侍医・軍外科医として仕え、妻子を持ったが、 エルサレムへの旅の帰途、詳細不明の死を遂げた。

主著『ファブリカ』(1543)の精巧な図版や、自ら執刀しながら教授するという解剖講義の形式には、 古典の書物ではなく経験を重視する姿勢が認められる。 ただしその一方で、ガレノスの医学理論にも深く通じ、その伝統を積極的に受け継いでもいた。

生涯

宮廷医師の家系に、二番目の子どもとして生まれる。 父親は医師ではなく薬剤師として神聖ローマ皇帝に仕えており、皇帝に従ってヨーロッパ各地の領土を転々としていた。 ヴェサリウス自身、後にそのような人生を送ることになる。

1530年(15歳)、ブリュッセルから少し離れたルーヴァン大学に入学し、基礎教養としてギリシア語やラテン語を学ぶ。 そしてその三年後には、フランスに行き、パリ大学医学部で学び始めた。 パリでは三年ほど勉強したが、その間、数少ない機会を捉えて人体解剖を行っている。 彼はどうも若い頃から、解剖と人体の構造に相当な魅力を感じていたようだ。

一度ブリュッセルに戻ったあと、今度はイタリアに向かい、1537年12月、23歳になる直前に医学の学位を取得。 それと同時に外科学と解剖学の教授(正確には「外科学説明者」)として任用される。 ここでヴェサリウスは、講義・執刀・示説という三つの仕事を一人で行うという授業スタイルを打ち出した。 また、その翌年には六枚の解剖図からなる『解剖学図譜』を出版し、かなりの評判を獲得したと見られている。

1543年(28歳)、解剖によって得られた知見を『人体の構造についての七書』(通称『人体の構造について』または『ファブリカ』)と題して出版。 これがヴェサリウスの主著となり、十二年後(1555年)には改訂版も出た。 また、これと並行して、学生向けの短い版である『梗概』(または『エピトメー』)も同じ1543年に出版されている。 いずれもたいへん好評を博し、ヴェサリウスは『ファブリカ』の海賊版に頭を悩ませることになった。

この主著の出版直後、ヴェサリウスは唐突に大学を辞め、神聖ローマ皇帝の宮廷侍医・軍外科医に転身する(1543年、28歳)。 これ以降、ヴェサリウスが大学の世界に戻ってくることはない。 解剖学上の知見について何人かの学者と論争したりすることはあっても、自ら解剖を教えることは基本的になかった。

1544年(29歳)、ヴェサリウスはアンネという女性と結婚し、翌年には娘のアンネ(母親と同名)が生まれる。 妻のほうのアンネはブリュッセルの会計会議所長官の娘だったことが知られている。 家族は基本的にブリュッセルで暮らしていたようだが、ヴェサリウス自身は皇帝にしたがって旅を続けた。 1556年に皇帝カール五世が退位するまでの十二年間は、このような生活が続いた。

宮廷侍医として活動する中で、ヴェサリウスは外科の知識も身に着け、要人を含む多くの患者の治療に携わっていた。 1559年にフランス王アンリ二世が馬上槍試合で重傷を負ったときにはブリュッセルから診察に呼び出されている。 結局国王は亡くなったが、診察と死後解剖にも立ち会った。 ちなみにこのとき、フランス側から治療に関わったのは外科学の祖といわれるパレである。

同じ年(ヴェサリウス44歳)、スペイン王フェリペ二世に請われ、家族ともどもスペインに移住。 ここでも、著作を通じて解剖学上の論争を行ったり、国王の長男の頭部外傷を治療したりなどした。 これらがヴェサリウスの最後の活動となる。

1564年、動機ははっきりしないが、ヴェサリウスはエルサレムに巡礼の旅に向かう。 スペインを出てフランスに入ったところで家族とは別れ、マルセイユ、ヴェニスなどを経てエルサレムにたどり着いた。 このあと何が起こったのか、はっきりしたことは分からない。 確実なのは、その帰途、船がトラブルに見舞われ、地中海に浮かぶザンテ島(現在のザキントス島)に到着したことと、 この島に上陸したヴェサリウスがそこで亡くなったということである。 享年49歳。あまりにも唐突な出来事だった。

参考資料

2011/6/5
(c)ARIGA Nobumichi
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