Boudri, What was Mechanical about Mechanics (2002)

J. Christiaan Boudri (tr. Sen McGlinn),
What was Mechanical about Mechanics:
The Concept of Force between Metaphysics and Mechanics from Newton to Lagrange
.
Dordrecht: Kluwer Academic Publishers, 2002.

著者がこの本(元々は学位論文)で示そうとしたのは、「18世紀の力学の発展において形而上学的な次元が重要な、実のところ主導的な役割を果たした」ということである(p. 3)。通常、18世紀における力学の発展に対しては理論の数学的洗練というイメージが持たれているが、この時代にはまた力の概念をめぐって三つの大きな論争があったという。いわゆる活力論争(1686-1743)、最小作用の原理をめぐる論争(1734-1781)、力の形而上学的基礎に関するベルリン・アカデミー懸賞(1779)である。著者はこうしたテーマの検討を通じて、18世紀における力の概念の変化と、それに随伴する形而上学そのものの「転換」を描き出そうと試みる。では、その変化とはどのようなものなのだろうか。

実体としての力:内在的な力と外在的な力

第1章のイントロダクションに続く Part A は二つの章からなる。大まかに言って、第2章ではニュートンが、第3章ではライプニッツが扱われるが、論点となっているのは彼らに共通する「統一的な」力の概念である。実を言えば、私の印象では、本書の最大の功績はこの概念についての詳細な分析を与えた点にあると思う。以下、私なりに著者の議論をまとめてみることにする。

著者の問題設定は、17世紀において「力学的な力」(mechanical force)とは元々どのような概念だったか、というものであり、ガリレオやデカルト、ニュートン、さらにライプニッツといった人々の記述が検討される。それらの中に著者が認めるのは、外在的(external)な力――典型的には重さがもたらす作用――と内在的(inherent)な力――運動物体が持つとされる力――という二つのものが分かち難く結びついているという事態である。著者の「考古学的な」観察では、このことは中世のインペトゥス概念まで遡るといっそう明確になる。すなわちこの考え方によれば、「外側から作用する力は内側で働く力へと変換される。物質的な物体は力で満たされた容器のようなものである」(p. 52)とされていた(ちなみに、第2章と第3章の最後では、力の概念が容器に入った水に例えて説明されている)。

ニュートンに関して言えば、著者の分析のポイントは二つある。第一に、ニュートンはインペトゥスの概念と運動状態の変化に対する抵抗とを結び付けて、「慣性力」という一つの内在的な力にした。第二に、ニュートンは重さのような連続的な力を衝撃力と同質のものとして把握した(連続的な力は単に衝撃力の無限和に過ぎない)。この第二点が意味するのは、著者に言わせれば「力の作用と力それ自体との同一視」(p. 68)である。おそらくここで言われているのは、運動物体が持つとされる内在的な力(「力それ自体」)が他の物体に対する衝撃力として、すなわち外在的な力(「力の作用」)として機能するということであろう。以上の議論から、「力とは一つの実体から別の実体へと移されうる原因であり、そのプロセスの間に、運動の量や抵抗や重さといった様々な形態で顕在化する」(p. 69)という結論が引き出されて第2章は閉じられる。

第3章ではライプニッツにおける力の概念が詳しく論じられるが、私の見るところでは、ここでも内在的な力と外在的な力の統一ということが最大の論点であるように思われる。例えば、ライプニッツがデカルトの批判を行った際――これが活力論争のきっかけとなったのだが――、彼が念頭に置いていた力の概念の内には「変化の原因」と「衝突における[物体から物体への]運動の移行」という二つが統一されていた(p. 81)。また、ライプニッツは後に活力と死力という二種類の力概念を構想するようになるのだが、著者は前者を内在的な力、後者を外在的な力とし、この二つのものの同質性を強調する(活力は死力の無限和である)。ニュートンの議論との類似性は明らかであろう。「かくして力を数学化するにあたり、ライプニッツとニュートンは内在的な力と外在的な力の質的な同一性を仮定している」のである(p. 100)。

以上が、18世紀が始まった時点での状況だった。問題は、この内在的=外在的な力がその後どうなっていったかである。

実体から構造へ

Part B は、ダランベールについて論じた第4章と、最小作用の原理に関するモーペルテュイとオイラーの仕事を論じた第5章からなる。この二つは、力の概念が先に見たような「実体」(substance)から「構造」(structure)へと変化していったという著者の主張の具体的事例として取り上げられているのだが、その議論には不満な点もある。

第4章ではまず、活力論争に関する先行研究の概観があり、この論争におけるダランベールの非重要性(一般にはダランベールが論争に決着をつけたと言われる)が確認される。次いでダランベールの思想の分析に入り、この人物を感覚主義合理主義者(sensualist-rationalist)と特徴づけた上で、彼の力学においてはそもそも「原因」(作用因)というものが登場せず――ダランベールの言う「力」は性質または関数関係であって因果的な意味を含まないと著者は主張する――、したがってそこには「現象」(ないし原因の無い結果)だけが残るという議論がなされる。

続いてダランベールの『動力学論』の詳しい分析が来る。結論から言うと、著者の解釈では「ダランベールの議論の中核にあるのは、力学の諸概念は個々の実体ではなくこれらの実体が組み込まれている時空構造を参照するものとして捉えられなければならないという洞察である」(p. 132)。このように述べられる根拠は、ダランベールが彼の「運動の三法則」を時間と空間の性質から導きたがっているという点にある(とは言え、実際には「第三法則」の導出にあたって質量が導入されているという事実を著者のように軽く切り捨ててよいかどうかは疑問の余地があるのではないか)。ダランベールの言う「力」が性質であるとして、それは物体の性質ではなく時間と空間の性質である、というのがここでの主張であり、この意味で「実体的な概念の、時空構造の概念への転換」(Ibid.)が起こっているというのが本章の結論である。

これと似た、実体から構造への転換が、第5章では最小作用の原理に関して議論される。著者はまずモーペルテュイについて分析し、ダランベールが作用因から結果に向かったのに対してモーペルテュイは結果から目的因に向かったと指摘する。その上で、彼の提唱した最小作用の原理とは力の従うべき法則であり、このことは力が物質的実在の構造の中に基盤を持つことを前提しているという主張がなされている。著者の議論は非常にわかりにくいのだが、「モーペルテュイは物体の本性や経験的領域ではなくむしろ高次の原理に根差した基盤を探求している」(p. 160)といった書きぶりから察するに、おそらくモーペルテュイに関して「構造」と言われているものは自然現象を支配する「高次の原理」であると思われる。

この章ではもう一人、オイラーによる最小作用の原理の探求についても詳しく分析されている。ここでもまた、「作用の積分の最小性は別々の物質的実体についてではなくそれらの構造について何事かを語っている」(p. 169)といった記述が見られるのだが、オイラーに関して著者が「構造」という言葉で何を述べているのかが私にはよく分からない。本章のほぼ最後の箇所では、目的因の基礎に関するモーペルテュイとオイラーの違いについて、「モーペルテュイにとっては目標が神の知恵の中に設定されるべきであったのに対して、オイラーにとってそれは究極的には物質的実体の中に設定されるべきであった。結局のところ、オイラーの目標は構造を実体に、構造の力学を実体の形而上学に基礎付けることであった」と述べられている(p. 171)。この最後の一文などは、素朴には、著者の言う実体から構造へという流れとは逆向きの移行であるようにも読めてしまう。

なるほど、モーペルテュイにせよオイラーにせよ、物体に内在する実体というような意味での力についてはもはや語っていないということは本章の議論からわかる。しかし、力の概念が実体から構造へと転換したと著者が述べるとき、「構造」という言葉の意味は必ずしも一定ではなく、確定していないように思われる。だがもしそうであるのなら、ダランベール、モーペルテュイ、オイラーについてはただ、彼らが実体としての力について語らなくなったと言えばそれで済む話ではないだろうか。この点が私は最後まで腑に落ちなかった。

実体 vs 構造

Part C は、ある意味で対照的な二つの章からなる。ここでは順番を変えて、ラグランジュを取り上げた第7章を先に見ておこう。著者はラグランジュの初期の力学研究について検討し、最小作用の原理から仮想速度の原理へと力学の基本原理を変える途上で前者の含意していた目的論的な形而上学を退けたことを確認する(ただしここで推定されている経緯については私は同意できない)。だがこのことは、ラグランジュの力学が形而上学と無関係であったということを意味しない。なぜなら、ラグランジュの言う「力」とは事実上物体の相互作用(結果)のことであって、物体に内在する実体(原因)ではないからである。

これが意味するのはラグランジュの解析力学が実は一つの形而上学に、実体ではなく構造が中心概念であるような形而上学に基づいているということである。ラグランジュ自身はこの形而上学的基礎における変化を認識していなかった。彼は解析的な土台に基づく原理の探求に取り組んでいたのだが、原理を強調することが実在の構造的側面への移行を伴うことに気付いていなかったのである(p. 83)。

こうして、ラグランジュの著作は力学の諸概念についてまったくと言っていいほど反省を与えていないにも拘わらず、そこには一つの形而上学が潜在化している。著者の議論に従えば、原因ではなく結果について語るということ自体が一つの形而上学立場であり、それは歴史的に見れば決して当たり前のことではなかったということになるだろう。

このことは、「力の基底」を問うたベルリン・アカデミーの懸賞(1779年)を見るとはっきりする。これを取り上げた第6章ではまず、アカデミーにおいてこのような問題設定のなされた背景が、とりわけ哲学部門の主導権を握っていたヴォルフ派の思想に即して考察される。著者はこの懸賞問題の起源をアカデミーと外部の哲学学派(特にヒュームの認識論)との論争ではないかと推測し、懸賞がヴォルフの形而上学の弱点を強化しようという意図で行われたという解釈を提示している。この議論は単に力学史にとどまらず、18世紀ドイツ思想史にとっても意義深いものであろう。

章の後半では、著者によるアーカイヴ調査の成果に基づいて、現存する16の応募論文のうち、力学ないし自然学における力概念を問題にしている7編の論文の概観が与えられている。そこから明らかになるのは、力を実体として捉えてそれに何らかの基礎を与えるという方向性が1780年頃にはまだ受容されえたという事実である。先に見たラグランジュのケースとは対照的に、ここでは力についての哲学的議論が盛んに行われており、しかもそこで言う「力」は著者の用語法に従えば構造ではなく実体なのである。

著者の見方では、この懸賞は、力学が形而上学から離れていく一方で形而上学の基礎としての力概念が十分でなかったという当時の状況を反映している。と言うのも、数学分野の懸賞と異なり、応募者には二流の人物の名前しか見当たらないからである。実際、著者はこの懸賞課題に寄せられた論文を「主に時代の肖像として、当時のホットな話題に関する公衆すなわち教養ある素人の考えを明らかにしてくれるものとして」捉えている(p. 176)。そのようにして力学の「内側」と「外側」(p. 180)を明確に切り分けることができるかどうかは私には議論の余地があるように思われるが、少なくとも、18世紀の終わり頃になっても力を構造として捉える立場が必ずしも一般的でなかったことを明らかにしたことは、著者の重要な貢献と言ってよいだろう。

18世紀力学史と力の概念

本書の結論部である第8章で、著者は18世紀の力学を再評価するための四つの「仕様」を掲げている。具体的には、(1)18世紀における力学の発展をニュートンの力学の形式化とだけ見なすべきではない、(2)それは17世紀の科学革命の続きである、(3)力学の原理についての議論は神学・形而上学の論争と固く結びついている、(4)力学における一連の論争はそれ自体、力学の形而上学的基礎の発展である、という四点である。

著者はこのうち最後の点に自分自身のアプローチを結び付けており、上で見てきたように、力の概念に関しては実体と構造という二つの類型を提示している。私はやはり構造というラベルは多義的すぎて不適切であると感じるが、少なくともニュートンやライプニッツの想定していた実体的な原因としての力概念から、それによって生み出される結果すなわち物体に対する作用という意味での力概念への移行が18世紀に生じたという見方自体は有効であるように思う。同時に、それが言わば一部のエリート集団内部で起こったものにすぎず、一般に浸透したとは言えないということを明らかにしたことは、従来の力学史に対して大きなインパクトを持ちうるだろう。さらに、この時代における力学と形而上学の関わりについても、それが二重である――明示的なレベルでは力学の基礎に対する形而上学的アプローチが次第に拒否されていったが、暗示的なレベルでは分離ではなく「転換」(transformation)が生じた――という見解は一考に値すると思われる。

しかしながら、18世紀力学史の著作として見た場合、本書にはいくつかの点で欠陥があると言わざるを得ない。第一に、力の概念についての著作であるにも関わらず、18世紀前半の活力論争について独自の分析を試みていないのが不可解である。本書は Part A で17世紀の状況を確認した後、Part B では一気に1740年頃まで話が飛んでしまう。その間の事情については先行研究に基づく概観はあるが、やはり詳しい分析を行うべきであろう。

第二に、こちらの方がより重要だが、本書は天体力学や振動の問題といった、数学的・解析的要素の強い話題をまったく扱っていない。ラグランジュについてはある程度論じられているものの、例えばオイラーに関しては、通常強調される質点・剛体・流体その他の「ニュートン力学」の仕事については論じられず、最小作用の原理という言わばオルタナティヴな題材しか扱われていない。一般に、18世紀には力学の解析化が起こったということが言われるが、そこで活躍した大陸の数学者たち――主として、ベルヌーイ一族、ヘルマン、オイラー、ダランベール、ラグランジュ――の仕事と本書で議論されているような力概念の問題がどう関連するのかがまったく見えてこないのである。

私自身の立場はむしろ本書で採られているような概念的・哲学的アプローチに近いものだが、他方で18世紀の力学にとって理論的・数学的発展が決定的に重要なものであったことも確かである。形而上学の「転換」を伴った力概念の変化、という本書の描像が、力学の解析化・体系化といった側面とどのようにつながるのか、あるいはつながらないのか。この点を深めていくことが、今後の研究課題であろう。

2009/1/13 (C)N. Ariga
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