バーク『文化史とは何か』(2008)

ピーター・バーク(長谷川貴彦訳)
『文化史とは何か』
東京:法政大学出版局,2008年.

[Peter Burke, What is Cultural History?.
Cambridge: Polity Press, 2004.]

※同書は改訂版が出ていますが、この記事は旧版についてのものです

科学史の「文化論的転回」(cultural turn)ということが、近年、特に英米を中心に言われるようになってきている。 学説史でも思想史でも社会史でもない「科学の文化史」の興隆が、1990年代以降の科学史の大きな潮流となっているのだ。 だがそれにしても、そもそも科学の文化史とはどういったものを指すのだろうか。 それにはどのような長所・短所があり、どこから来てどこへ向かうのだろうか。 そういった問題を考えるには、単に科学史内部の事情を考察するだけでなく、文化史一般の立場から検討してみることも有益に違いない。 そのための手がかりを与えてくれるのが本書である。

文化史研究の第一人者である著者は、この本の中で、文化史自体の歴史とその広がりという途方もなく大きなテーマを極めてコンパクトに論じている。 しかもそれらは単なる歴史研究の事例の羅列ではなく(確かに紹介されている研究は膨大な量に上っているのだが)、そこに現れている研究者の問題関心や手法に沿った形で分類され、議論されている。 興味深いのは、そうした著者による腑分けの中に、科学史の有名な著作が自然に位置づけられていくという点である。 このことは、科学の文化史はどこから来てどこへ向かうのかという問題にとっても多くの示唆を与えてくれることになるだろう。

古典的文化史とその批判

著者の概観は、文化史の古典的な時代――概ね19世紀から20世紀前半――から始まる。 第1章ではまず、ブルクハルトやホイジンガに始まる「偉大なる伝統」(これが章の表題である)と、1930年代の特にドイツ語圏における「美術の社会史」について述べられている。 後者の流れに属する学者たちがナチス政権の時代に諸外国へと亡命したことは、イギリスやアメリカの学者たちに、文化と社会の関係をより深く考えさせる契機となった。 またそれに続いて、1960年代には「民衆文化の歴史の発見」が起こることになる。

第2章では、文化史の「古典」が孕んでいた問題点とその帰趨が論じられる。 文化史家もやはり史料批判を実践しなければならないという点を議論した後、著者は古典的アプローチに対するマルクス主義の批判に話を移す。 この批判の内容は、いわゆる下部構造についての言及が希薄であるということと、文化の同質性が過度に強調されているということの二点に集約されるのだが、著者によれば「そうした批判は、根本的な問題を提起している。 すなわち、文化的同質性に関する誤った前提を用いないで文化を全体的に研究することが果たして可能であるか、ということである」(39頁)。

これに対する回答として提出されたのが、文化的伝統を研究するという道と、エリート文化と民衆文化を区別するという道であった。 だが「伝統」にせよ「民衆文化」にせよ、それらもまた自明視されるべきものではない。 著者はひとまずの処方箋として、一方では「継承されてきたものは新たな世代への転移の過程で変化しているし、それどころか変化しなければならない」(41頁)ことの確認を読者に求め、他方では「二項対立をあまり厳密なものとせずに二つの用語を用いる」ことによって「エリート文化と民衆文化をより広い枠組みに位置づける」(44頁)ことを提案している。

人類学から新しい文化史へ:実践と表象

1960年代から90年代にかけて、「文化」という言葉は「日常生活の文化、つまり、習慣、価値、生活様式なども含むようになった。 いいかえれば、歴史家は人類学者によって抱かれている文化に対する見解へと接近してきたのである」(51頁)。 それゆえ、この時期は「歴史人類学の時代」(第3章表題)となる。

著者はまず、60年代から70年代にかけて歴史家に影響を与えた人類学者として、マルセル・モース、エドワード・エヴァンズ=プリチャード、メアリー・ダグラス、クリフォード・ギアツの四人を特に取り上げ、彼らの仕事と、そこから影響を受けた歴史研究を簡単に紹介している。 とりわけギアツに代表される「演劇的アプローチ」についての説明が詳しい。 こうした「人類学的転回」はやがて文学史、美術史、科学史などにも波及していき、その一例としてマリオ・ビアジョリの『宮廷人ガリレオ』(1993年)が挙げられている。

著者はこうした人類学的関心の増大を、歴史叙述の内在的な問題だけでなく「広範な世界の変化」を受けてのものと捉えている(65頁)。 そして、おそらくは同様の変化に対する応答として、70年代から80年代に出現してきたミクロストリアの流れや、ポストコロニアリズムおよびフェミニズムの立場からの歴史研究について述べている。 (ただし、この部分の記述はかなり唐突な感があるが。)

そうして80年代の末になると、アメリカで「新しい文化史」が登場してくる(第4章)。 「新しい文化史は、今日実践されている文化史の支配的な形態である。 なかには、歴史学の支配的な形態だという者もいるだろう」(75頁)とまで言われるその歴史学は、ではいったいどのような特徴を持つのだろうか。

まず挙げられるのが、理論への関心である。 著者はここでは、ミハイル・バフチン、ノルベルト・エリアス、ミシェル・フーコー、ピエール・ブルデューの四人を取り上げ、彼らの仕事を簡単に紹介する。 共通しているのは、「これら四人の理論家たちはみな、文化史家に対して表象や実践に関心をもつように促してきた」(86頁)という点である。

実践に関して言えば、スポーツ、言語(発話)、宗教(巡礼)、旅行、収集といった題材が歴史学の対象となってきた。 とりわけよく知られている読書の歴史については、やや詳しく紹介がなされている。 科学史の場合、実践の強調はたとえば「科学理論の歴史よりも実験の歴史が研究されている」(86頁)ことに見られる。 本文中では明示的に取り上げられていないが、著者はこの節の注でシェイピンとシャファーの『リヴァイアサンと空気ポンプ』(1985年)を参照している。

もう一つの主題である表象についてもさまざまな研究が紹介されているが、特に音楽におけるオリエンタリズムと記憶の歴史とにそれぞれ一項目が割かれている。 また、著者がこの節の冒頭でまずフランス流の「想像力の歴史」(想像されたものについての歴史)について述べ、英語圏では「表象の歴史」が一般的な用語であって「想像力の歴史」という言葉はいまだ確立していない」(93頁)と書いているのは、本書の結論(後述)への伏線なのかもしれない。

新しい文化史としてはさらに、物質文化(例えば衣食住)の歴史や身体の歴史がある。 著者はこうした分野について一通り概観を与えた後、以前の文化史研究との連続と断絶の両方に注意を促す。 もっとも、新しい文化史が歴史人類学やさらにはブルクハルトやホイジンガの著作とさえ類似性を持っているにしても、「文化史の理論や実践での集団的な転換や転回がここ三十年間に発生したことを否定するのは難しいだろう」(107頁)。 しかし、まだ話は終わらない。

構築とパフォーマンス

第5章では、「哲学や社会学から科学史へといたる他の学問領域での「構築主義」的傾向が、新しい文化史に与えた影響」(110頁)が議論される。 この点に関して言えば科学史(科学論)が文化史一般の流れを先導したのかもしれないが(ゴリンスキ『自然知識を作る』(1998年)とハッキング『何が社会的に構成されるのか』(1999年)が注に挙がっている)、歴史学においても構築主義が台頭する土壌はすでに形成されていたように思われる。 と言うのは、「下からの歴史」「征服された側の視座」「女性の観点」などの出現により、「歴史家は、さまざまな人びとが「同一の」出来事や構造をかなり異なる視点から眺めていることを、ますます自覚するようになっ」ていったからである(111頁)。

理論的な面では、構築主義はフーコーとその次に来るミシェル・ド・セルトーに多くを負っている。 特にセルトーが提示した「再利用」というアイディアは、美術・文学・音楽研究などにおいて、「受容」への関心を高めることにつながった。 他方で、1980年代以降には、「発明」「構築」「想像力」といった言葉をタイトルに持つ実にさまざまな著作が現れる。 実際、「もし文化的構築の重要性に関してフーコーやセルトーが正しいとしたら、そのとき、すべての歴史は文化史となる」(116頁)のだ。 そうしたさまざまな「構築」のうち、ここでは階級とジェンダー、共同体、王権、個人的アイデンティティをめぐる諸研究が紹介されている。

こうした動きと並行してもう一つ重要なのは、「スクリプト」から「パフォーマンス」へという「発話遂行論的転回」である。 これにより、「固定的な文化の規則の観念は消え去り、即興の観念に取って代わられた」(135頁)と著者は言う。 これは特に儀礼や祝祭に関する研究の中で言われてきたことであり、そうした研究は「意味が、それぞれの状況で新たに生み出されている」(137頁)という示唆を与えている。 著者はこうした事例をさらに一般化して、「異なる場(時間と地域)や異なる状況、異なる人物の面前では、同じ人物でも異なる行動様式をとる」(139頁)という教訓を引き出している (ただし、これに「機会原因論」という言葉を充てたのは適切でないと私は思う)。

以上のように文化的構築という概念は今日広く用いられているが、著者によれば、この考え方はさらなる三つの問題を提起する。 すなわち「誰が、どのような制約条件のもとで、そして何を素材として構築をおこなっているか」(143頁)である。 つまり単に「構築」と言うだけではなく、そのプロセスを徹底的に究明することが求められているのである。

その先に来るもの

それで、文化史はどこへ向かうのだろうか(第6章)。 新しい文化史は、すでに当初の輝きを失いつつある。 「二十一世紀初頭は、業績評価と在庫管理、そして整理統合の時代であるように思われる」(145頁)。 そこで著者が提示するシナリオは、大きく三つある。 一つ目はエリート文化研究の再流行であり、「ブルクハルトの回帰」と名付けられている。 ただしこれは民衆文化史の消滅を意味するわけではなく、両方は共存しつつ、相互交流への関心が増加すると著者は見ている。 二つ目は領域のさらなる拡張であり、著者は最近登場してきた研究領域として、政治、暴力、情動、感覚の文化史を概観している。 三つ目は「社会史の逆襲」で、これは構築によって社会を文化に還元することへのアンチテーゼとして想定されている。

しかしながら、こうした具体的なシナリオ以上に重要なのはおそらく、現在の文化史が抱えている問題点を見極めることであろう。 そこで具体的に著者が挙げているのは、文化の定義があまりにも包括的なものとなってしまったこと、新しい種類の史料に対する史料批判の方法が確立していないこと、文化的差異が強調されたためにより大きな集団についての記述が困難となっていること、という三点である。

このうちの最後の問題点から出発する形で、著者は文化的辺境と文化的遭遇を扱った近年の研究を概観し始める。 ギャリソンの『イメージとロジック』(1997年)が(明示的にではないが)言及されるのはこの文脈においてである。 著者はおそらく、文化の衝突という現代的課題に対する応答として「辺境」や「遭遇」を問題にしているのであろう。 実際、この本全体を貫いている一つの発想は、文化史の帰趨は内在的要因と外在的要因との両方に規定されているというものである。

そうして著者は最後に、「遭遇はひとつの出来事であり、したがって、それが誘うのは、かつて旧い様式の歴史学と結びつけられていた出来事の物語が文化史のなかで果たしうる役割を考察することである」(175頁)として、物語(ナラティヴ)に関する最近の研究について述べる。 一般に広まるかどうかはともかく、著者自身は、文化史における「物語の復権」を志向しているように思われる (同様の趣旨の事柄は、同じ著者の『フランス歴史学革命』でも述べられている)。 このことは、本書の最後にある短い結論部分の最後で次のように書かれているのと、おそらく無関係ではないと私は思う。

ここ三十年で、文化史家は文化人類学者と同じように、この実証主義的アプローチのもつ弱点を明らかにしてきた。 歴史研究の将来がどのようなものになろうとも、想像力を欠いた歴史学への回帰はありえないであろう。(182頁)

科学史の未来?

科学史の立場から本書を読んでいると、近年話題になった(よく耳にする)科学史の本がたいていこの中に登場していることに気付く。 しかもそれらが書かれたのは、構築主義の場合を除けば、文化史全体のトレンドからある程度遅れてのことである。 ところで著者によれば、文化史の著作の水準は80年代には高いレヴェルにあったが、90年代から徐々に後退してきたという。 とすれば、科学史における文化史の流行も、そろそろ勢いを失い始めるのかもしれない。

とは言え、文化史一般が科学史にとってインスピレーションの宝庫であることは間違いない。 実際、科学史はこれまでに多くのものを受容してきたし、中でも「実践」への注目は今や科学史にとって中心的なものとなりつつある。 そうした視点は間違いなく、従来の学説史や思想史には往々にして欠けていた重要なものを拾い上げてきた。 著者の言葉をもじって言えば、科学史研究の将来がどのようなものになろうとも、実践への配慮を欠いた科学史への回帰はありえないように思われる。

関連文献

2009/7/30 (C)N. Ariga
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