金『明治・大正の日本の地震学』(2007)

金凡性
『明治・大正の日本の地震学:「ローカル・サイエンス」を超えて』

東京:東京大学出版会,2007年.

近代的な科学研究は、明治時代に西洋から日本に入ってきた。明治の日本はまず、西洋の科学を学び、そのレベルに追いつくことから始めなくてはならなかった――というのが、日本の近代科学史の基本的な語り方である。ところが、少なくとも一つだけ、このような図式に当てはまらない科学分野があった。それが本書の主題とする地震学である。

この本は、著者の博士論文を書籍したもので、本文は146ページとそれほど長いものではない。序章と終章(導入と結論)を除いた本論は四つの章から成っており、表題の通り、明治から大正にかけての日本の地震学の展開がほぼ次代順に扱われている。著者の目的は、地震学という例を通じて冒頭で書いたような日本の科学史の一般的理解に反省を迫ろうとするところにあるけれども、まずは本論の内容をまとめておこう。

日本の地震学の始まりと展開

第1章は、明治初期に日本にやって来た外国人たちの地震研究を扱う。世界最初の地震学会は日本で、1880(明治13)年に設立されたが、その中心はイギリス人を中心とした在日外国人だった。彼らは、日本の独特な自然現象である地震に興味を持ち、地震の観測や理論的考察を始めた。ここで重要な役割を果たしたのは、お雇い外国人のユーイングやグレーが開発・改良を進めた地震計である。地震の波形を記録できる装置はそれまでの西洋にはなく、したがって地震計を使った地震学研究もなかった。「自動記録のできる地震計の開発によって、『新しい』という自己認識を持つ一つの科学分野が東京と横浜を中心に形成されていった」(35頁)。

地震学の黎明期に活躍した最大の人物は、イギリスから来た地質学者のミルンである。彼は地震計その他の装置を使い、地震の実体を総合的に捉えようとした。とりわけ、地震動の時間的・空間的分布を調べるために、日本の政府関係機関や地震学会などの協力も得て、各地でとられたデータを集めたネットワークを作ろうとした。この個人的関心に端を発した研究ネットワークがやがて、「日本の」地震研究の基盤となっていく。

第2章では、地震研究が外国人の科学から「日本の科学」になっていく経過が取り上げられる。地震学会の動きとは別に、日本では地震観測が気象台によって業務化されていった。気象官署では、初期にはイタリアのパルミエリ式地震計が使われたが、1882年以降、ユーイング式やミルン・グレー式のものが使われるようになった。「……気象台での地震観測は、日本地震学会のハードウェアとソフトウェアを吸収し、それが気象台の日常的な観測業務と結合させられることによって、日本独自の地震観測システムへと発展していった」のである(54頁)。

一方、1886(明治19)年には帝国大学(後の東大)に地震学教室が置かれ、初代教授として関谷清景が着任した。この頃から、地震学の研究はむしろ「耐震建築」と「予知」に向かうようになっていく。これがはっきりするのが、1891(明治24)年の濃尾地震を受けて設立された震災予防調査会である。この研究組織は、「地球に関する知識よりもむしろ地震から国家を守るための諸手段を講究し、そのために日本人研究者の力量を網羅的に動員しようとした組織であった」と著者は書いている(63-64頁)。そして震災予防調査会が本格的に活動を進めた1890年代には、「日本が世界の地震学における中心である」といった言説も少しづつ見られるようになった(69頁)。

1900年前後、国内のみならず海外でも地震学の権威とされたのが大森房吉であった。第3章は、東京帝国大学の地震学教授にして震災予防調査会の幹事でもあったこの人物の地震学研究についての検討に充てられる。著者によれば、大森の地震学は気象学をモデルにした統計的性格のものであった。彼は実際、全国の地震・気象データや過去の記録を表やグラフにまとめる中で、気象と地震との関係を「発見」している。現代から見ればおかしな議論だが、この種の研究プログラムは当時、盛んに研究されたという

※これについては、著者の別の論文で詳しく取り上げられている。金凡性「地震はいつ起るのか:大森房吉(1868-1923)と『気象学的地震学』」『科学史研究』第42巻(2003年)11-19頁.

ここで著者は、いわゆる「大森式地震計」に着目する。これは1898(明治31)年に設置された新型の地震計で、それまでよりも振り子の周期を長くとってあり、遠方で発生した地震波の観測に適していた。これにより、大森は東京の実験室にいながらにして、世界各地の地震を観測・分析できるようになった。著者はこの点に、大森が地震学の世界的権威となることができた主因を認めている。実際、大森は1905(明治38)年にはインドに、1906(明治39)年にはアメリカのサンフランシスコに、1908(明治41)年にはイタリアに、地震の専門家として派遣され、内外から高い評価を得たのであった。

ところが、大森地震学に対する評価は1920年代以降、はっきりと低くなっていく。これは1900年代に始まる、地震学へのより物理学的な観点からのアプローチがやがて優勢になったためであり、この過程が第4章のテーマとなっている。著者はまず、1900年代初頭に行われた、長岡半太郎と日下部四郎太の研究を取り上げる。二人は岩石の弾性を実験室で測定し、そこから地震波の性質を明らかにすることを目標に掲げて、大森の研究方法に批判を加えた。とはいえ、この批判が直ちに成就することはなく、同じ物理学者であっても寺田寅彦などはむしろ大森の方法を支持していた。状況が変わるのは、欧米科学からの独立が叫ばれるようになる1910年代半ば以降のことで、京都大学の志田順なども大森の批判に加わるようになった。

したがって、1923(大正12)年の関東大震災以前に、大森体制への挑戦はある程度進んでいたと著者は見る。大森の後任である今村明恒は震災後、有名な地震学者となったが、長岡はそれ以上に、世界的な科学者としての地位を固めつつあった。長岡らは地震研究の刷新を呼びかけ、1925(大正14)年に設立された地震研究所では、地震の波動や地殻変動に関する実験と数理が主な研究課題となった。大森の統計的・気象学的地震学は、地震学研究の表舞台から消えただけでなく、地震学者たちが語る「日本の地震学」の中でも、せいぜい批判的に触れられるだけになった。

地震学からの日本近代科学史再考

本書で描かれた明治・大正期の地震学の姿は、これまでに語られている地震学の歴史とは少し異なっている。地震学は「日本の科学」であると言われることがあるが、その発端は在日外国人たちの活動にあった。また、大森に代表される地震学研究は「前近代的」と見られることが多いが、それは地震計のネットワークに基づいた独自の研究システムを構築し、事実世界的な業績を上げていた。著者による次の文章が、この事情を最も的確にまとめていると私は思う。

……日本人の大森が欧米人に対して知識を提唱する立場たりえたのは、もともとはミルンによって作られ始めた、東京にその中心を置く地震研究システムの空間的な外延が、長周期の地震計という装置の登場によって日本国内から世界へと拡大されることによってであった。大森は、世界から届けられる地震データについて自ら解析を行うことによって、知識生産の最終段階を担当する中心の科学者として自分自身を位置づけることができたのである。(93頁)

著者はこのように、日本での地震学の始まりを、外国人が築いた知的・制度的基盤が日本人によって吸収・発展させられていった経過として捉えている。これがよくある近代日本科学史の記述と異なっているのは、そもそも西洋に近代的な地震学研究というものがなかったということ以上に、それが“日本化”される過程で研究の方向性や目的にも独特な変化が生じたという観点を示しているからである。もっとも、最終的にこの路線は再び“西洋化”され、物理学の方法論に基づく地震学が関東大震災以後には中心となっていくわけだが、著者が主張しているように、「『地球物理学の下位分野としての地震学』という関係は先験的に与えられたものではなく、歴史的な過程の中で形成されたものであった」(111頁)と見るべきだろう。

問題は、このような理解の仕方が地震学以外の場合にも可能かどうかである。著者は序章で、明治・大正の地震学には日本の科学史についての一般的見方――いわゆる「追いつき史観」――と相容れない部分があり、この異質性ゆえに、地震学の歴史を通じて日本の科学史の枠組みを問い直すことができると述べている。しかしながら、地震学という特殊な事例の分析がどのようにすれば日本科学史一般の理解を変えることにつながるのか、その道筋は示されていないように思う。これが特殊な事例だということを最初から認めてしまうのではなく、これは特殊ではないという議論をしていかなくては意味がないのではないだろうか。

私の考えでは、本書は日本の科学史の歴史叙述に再考を加えるということよりもむしろ、中心−周辺の動的関係を示すことのほうに成功していると思う。「日本地震学の歴史は、先に中心性を獲得し、その後にその中心性を喪失していく過程であった」(143頁)と著者は述べているが、このような事例は単に日本の科学史に限らず、およそ科学の歴史一般を考える上で一つのモデルケースとなりうるだろう。

これは希望的推測に過ぎないが、外国人のもたらした基盤の“日本化”と、中心−周辺の動的関係という視点をうまく組み合わせると、日本の科学史・技術史を描くための何らかのガイドラインが得られるかもしれない。地震学が特殊例ではなく典型例となるような枠組みが本当に構築できるのかどうかは何とも言えないが、そういう方向性を考えてみることは、価値ある試みに違いないだろうと思う。

2013/6/7 (C)N. Ariga
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