三好『明治のエンジニア教育』(1983)

三好信浩
『明治のエンジニア教育』

東京:中央公論社,1983年(中公新書).

書名だけ見ると、明治時代に技術者の卵はどのような教育を受けたか、という本のように思える。しかし実際には、そうした教育内容の詳しい記述はこの本にほとんど出てこない。むしろ著者の関心は、日本の工業化の始まりを支えた教育思想にあったように感じられる。

著者が述べている本書の目的は、「日本の工業化過程における教育の変容を明らかにするため、イギリスとの比較考察を進める」ことであり、「筆者の意図は、日本とイギリスとの間の緊密な教育交渉にもかかわらず、両国の教育に大きな差異が生じたことの原因を明らかにすることにある」と説明されている(12頁)。そこから逆に書名を付けるなら、『日英工業化教育思想の比較研究』といったところだろうか。

実質的な序論と言える第1章でお雇い外国人ダイアーと工部大学校について検討したあと、第2章からは章ごとに特定のテーマを設定し、それを代表するような人物を日英双方から取り上げて比較考察するという方針が採られている。この本が興味深いものになっているのは、主としてこの第2章以降におけるテーマの選び方と、そこで取り上げられる人物の対比の妙による。まずはその点からまとめておこう。

日英工業化を担った人々とその共通点・相違点

まず第2章では、従来型の職人がエンジニアへと成長する「自生過程」に注目がなされ、田中久重とジェームス・ワットが取り上げられる。両名について伝記的検討がそれぞれ行われた上で、それを踏まえた比較考察がなされるという構成になっている。結果だけ簡単に述べておくと、著者は二人のあいだに多くの共通点を見いだしながらも、「両者の発明力における質的な差異」の存在を指摘し(77頁)、その要因を技術的・科学的・工業的という三つの基盤に即して分析している。ワットが少し科学者寄りに描かれ過ぎているきらいはあるが、両者を比較することで見えてくることは確かにある。このような手法が、これ以降の章でも繰り返される。

第3章は、「機械化時代が訪れたとき、機械と人間の関係がどのように認識されたかという人間観と、その人間観にもとづいて教育の課題がどのように規定されたかという教育観の問題」というユニークな論点を扱っている(83頁)。ここで取り上げられるのは山尾庸三とリチャード・オーエンという異色の取り合わせなのだが、その理由は、二人が「生ける機械」という言葉を使った日英最初の人物だからだという。著者はこの比較考察から、二人がともに機械の効用に大きな期待を寄せていたことをまず指摘する。けれども、山尾が工業化の光の面を見ていたのに対し、オーエンはむしろその影のほうを憂慮していた。この相違について著者は、「オーエンの公共的善と山尾の利用厚生とは、その発想の基底に人民を据えるか、国家を据えるかの基本的なちがいをもっていた」という分析を与えている(105頁)。

続く第4章は万国博覧会を取り上げ、工業教育をとりまく国際環境を考察する。対比されるのは、佐野常民とリオン・プレイフェアという、日英それぞれで万博運営に深く関わった人物である。著者が指摘するここでの共通点は、万博を通じて「工業化と教育の関係を認識」し、「自国の教育制度の欠陥を発見」し、「その欠陥を改めるために、外国の教育モデルを受容」したという三点にまとめられる(129頁)。相違のほうは、主として外国モデルの「受容力」に求められ、特にドイツの教育に対する評価にそれが見られると著者は述べている。

この問題は、工業化に対する国家の役割がどのように考えられていたかということに関係してくる。そこで第5章では教育行政に目を向け、文部省の「専門学務局長」を長年務めた浜尾新(後に東大総長)と、イギリスの初代実用技芸局長(のち科学技芸局長)ヘンリー・コールを取り上げている。「技術教育を専管する教育行政機構が設けられたこと」、「技術教育に対して公費が支出され、公的な支配が始まったこと」、「中央にモデル的な技術教育機関が設けられて、そこで教員養成が始ったこと」の3点が、この場合の共通点である(158頁)。しかしながら、両国において国家の関与の仕方には大きな違いがあった。著者はこの理由を国家観の違いに求める。すなわち、「導師となり主役となるか[日本]、伴僧となり脇役となるか[イギリス]」という違いである(162頁)。

最後の比較テーマは、学校側の思想や制度である。第6章では、手島精一の実業教育論と、トーマス・ヘンリー・ハックスリの科学教育論が検討される。この二人には、正規の学校教育を終えていないにもかかわらず学校教育に大きな期待を寄せたという共通点があった。しかしここでも、両人の推進した教育には差異が認められる。「手島の学校観には実用化と完結化の傾向がみられ、ハックスリの学校観には教養化と継続化の傾向がみられる」というのがそれであり、著者はこの違いを、日英の技術教育が異なるものとなった主要な原因と見なしている(190頁)。

以上のように、著者は優れて独創的な観点から、日英の工業化教育に見られる共通点・相違点を考察している。上のまとめでは共通点・相違点の概略しか記さなかったが、これは各人物についてかなり深い検討を行った上での結論であって、決して皮相なレベルでの指摘をしているわけではないことを断っておきたい。それゆえ本書は、それぞれの人物についての研究としても価値があると言えるだろう。とはいえ、この本の意義はそれだけにとどまらない。

工業化教育の制度と思想

本書全体の議論にとって本質的なのは何よりも、「工業化教育」という枠組みそのものの設定であると思われる。第1章で著者は、「ここでいう工業化教育とは、工業化時代の工業化社会における教育の謂であって、当然、工業化と教育の構造連関を含意している」と述べている(47頁)。科学や技術をめぐる種々の思想や制度をこの枠組みで検討することによって、本書は日本の工業化という歴史現象を多面的に捉えることに対し、一定の成功を収めていると思う(ただし、著者の関心はあくまで教育に限定されており、産業について議論されていないという点は割り引いておかねばならない)。

それでは、明治期における日本の工業化教育の特徴とは何か。とりわけ、イギリスとの比較を通じて明らかになってきた論点とは何だろうか。すでに著者は第1章の中で、ダイアーの工業教育論に即してこれを論じている。つまり、「日本の工業教育における教育思想の欠如と、イギリスの工業教育における教育制度の欠如」である(42頁)。

この点についてエピローグでは、日本では学校教育が工業化に大きく寄与したのに対し、イギリスの場合は必ずしもそうでなく、むしろ教育が停滞の一因となったという見方が示されている。そうだとすれば、思想がなくて制度があったという状況は一概に悪いとも言えないのかもしれない。もっとも著者自身は、西洋から導入されて工業化の手段となった学校教育のあり方に「現代の教育病理」の起源を見ているのだが……。

しかし私はむしろ、日本で栄えた工業化教育にはそれなりの思想が一貫して存在したのではないかと思っている。本書で取り上げられている山尾、佐野、浜尾、手島といった人々の記述を読んでいると、科学技術こそが近代文明の基礎であり、それは国家が主導して教育することによって根付かせなくてはならないという考え方が共有されているように感じられるからである。これは自然な考え方に聞こえるかもしれないが、長い歴史的なスパンで考えた場合には決してそうではないだろう。本書が日本をイギリスと対比させることで示したのはまさにこのことなのだ。

だとすると、一つの問題は、このような思想がどこから来たかということである。それがイギリスには希薄であったとしても、ほかの欧米諸国との比較ではどうなのか(特に、本書で時々イギリスと対照されているドイツの場合など)。あるいは近世の日本の思想との関係はどうなっているのか。そういった点を考えていく必要があると思われる。また、本書で取り上げられている人物は主として行政や教育で活躍した人々だが、彼らのような発想が当時の研究者にどの程度共有されていたかというのも一つの論点になるだろう。「明治のエンジニア教育」をめぐる思想史には、検討されるべき点がまだ数多く残されているように思う。

とはいえ、本書が一般向けの新書でありながら、明治日本の科学技術史を見る際の秀逸な観点と見通しを提示していることに変わりはない。著者が採用しているような比較史の方法では、ものごとが図式的に割り切られすぎるという面は確かにあるだろう。けれども、あとがきの中で著者が次のように書いているのはまったくその通りだと私は思う(217-218頁)。「くろうとであるからには、歴史の細かな事実や、それらの事実の複雑なからみ合いなどについて理解する必要があるが、それだけなら専門書を著せばこと足りる。くろうとのもうひとつの仕事は、歴史の諸事実を整理して、単純明快な説明を与えることである」。

2014/3/10 (C)N. Ariga
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