Smith, The Science of Energy (1998)

Crosbie Smith,
The Science of Energy: A Cultural History of Energy Physics in Victorian Britain.
Chicago: University of Chicago Press, 1998.

19世紀の間に物理学に起こった最も大きな変化は、おそらく、エネルギーの概念が確立したことである。 およそ今日の物理学がエネルギーというもの抜きではありえないことを考えれば、この概念が生まれてきた経緯を精査することは、19世紀に限らず物理学史全体にとって極めて重要な課題であるのは明らかであろう。 しかしながら、この問題を正面から取り上げて議論している研究は、その重要性のわりに意外と少ない。 本書はそうした貴重な研究の一つであり、独自の角度から「エネルギーの科学」の成立を語った一冊である。

本書の狙いと特色

本書を読み終わったときの感想を一言で言えば、「ずいぶんと欲張った本だ」ということになるだろうか。 著者は、単にエネルギー保存則の成立について論じているのではない。 副題にあるように、その背景となった文化的背景を詳しく述べ、また、エネルギー概念の出現だけでなくその定着についても延々と語っている。 扱っている範囲は基本的にイギリス(特にスコットランド)に限定されているが、およそ19世紀の物理学史に関連するあらゆる話題がどこかで顔を出してくるような印象を与える。

おそらく、本書で著者が狙っている事柄は、三つに分けられるであろう。 一つは、エネルギーの概念とそれに基づいた物理学の思想が、19世紀前半のスコットランドの文化にどれほど深く結び付いているかを示すことである。 特に強調されるのが、そこで盛んだった工学(エンジニアリング)と長老派教会の信仰であり、この二つもまた密接に関連している。 第二に、著者は、ある科学理論や概念が普及していく経緯を、科学者が徐々に広い範囲から威信を獲得していくプロセスとして提示しようとしている。 本書の主題である「エネルギーの科学」の場合には、大雑把に言って、スコットランド、イギリス全体、国際関係という三段階にわたって支持を得ていくことになる。 最後に、いま述べたような社会学的関心を持ちながらも、本書は、エネルギー概念が確立されていく様子を物理学内部の進展として説明することを怠っていない。 数式こそほとんど出てこないものの、途中で登場する理論や実験はかなり詳しく立ち入って記述されている。 本書はこのように多面的な性格を持っているが、章ごとにその強調点は異なっているように思われる。

ここで、誤解を避けるために、「エネルギーの科学」(science of energy)とエネルギー概念そのもの(あるいはエネルギー保存則)とを区別しておく方がよいだろう。 1850年より前には誰も「エネルギー」という言葉を(今日のような意味で)使ってはいなかったにもかかわらず、1870年代には、物理学者は――誰もが、というわけでは当然ないだろうが――、自然哲学(物理学)とは要するに「エネルギーの科学」に他ならないとまで語るようになっていた。 著者が本書で問題にしているのは、このような意味での「エネルギーの科学」はいかにして成立したのかということであり、エネルギー保存則(ないしエネルギーの概念)はどのように発見されたのか、ということではない。 そもそも著者は、エネルギー保存則が「発見された」という物言いそのものを否定しているのである(p. 10f)。 むしろ本書の見方を簡単にまとめれば、「エネルギー保存則が発見された」という言明自体が、「エネルギーの科学」が成立する際に発明されてきたのだ、ということになるであろう。 これにより、本書は「エネルギー保存則の発見」をどのように記述するかという問題に新たな一石を投じている。

スコットランドのトムソン

本書の最初の方は、概ねウィリアム・トムソンの熱力学研究を中心として話が展開する。 とは言え、導入(第1章)を読んだ後にまず待っているのは、スコットランド長老派教会について説明した第2章である。 この章は完全に以下の話の布石となる宗教的・文化的バックグラウンドの解説に徹していて、物理学に関する話はまったく出てこない。 正直なところ、スコットランドの歴史すらよく分かっていない私には読んでいてかなりしんどいものがあった。

気を取り直して第3章に入ると、最初の主役としてジェームズとウィリアムのトムソン兄弟が舞台に登場する。 グラスゴー大学におけるフランス流エンジニアリングの伝統を背景に、両者とカルノー‐クラペイロン理論の出会いと、それを用いた初期の研究(〜1847)について述べられている。

第4章は、序盤のもう一人の主役であるジュールにスポットが当てられる。 著者は彼の初期の研究経歴(〜1847)を、「独創的な発明家」(ingenious inventor)から「紳士的な専門家」(gentlemanly specialist)への脱皮として描く(p. 58)。 また、この章の最後の節ではジュールに対してマイヤーが先取権を主張した一件についても書かれている。 ここではマイヤー自身の研究についても述べられているが、本書は基本的にイギリスでの出来事に焦点を当てているため、その取り扱いは小さい。

続く第5章では、ジュールとの書簡のやりとりから始まって、トムソンがカルノーとジュールの理論の調停を試みる(1847-49)。 社会学的な観点からは、このやりとりは二人が相互に威信を高めるプロセスであると捉えられるが(p. 78)、この章で実際に行われているのはむしろ、「完璧な熱力学的機関」というトムソンのアイディアを詳しく分析することである。 著者によれば、このアイディアはグラスゴーの工学的関心の表れであるだけでなく、同時に精神的な基礎を持つものでもあった。

有用な仕事の無駄を、したがって人間が作ったあらゆる機関の不完全さを認めることで、トムソンは人間がただ努力し切望するしかない完全さの基準へと注意を向けていた。 それに伴って彼は、不完全さは創造の中にあるというよりも人間の側にあるということを主張していたのである。 [中略] 人間の不完全さは、キリストの完璧な人性と神の創造とにおいて体現されている神の完全さと対照をなしていた。(p. 93)

だがトムソンはカルノーとジュールの主張を折り合わせることができずにいた。 その点で先を越したクラウジウスの議論の紹介でこの章は終わっているが、この解説も最小限のもので、ややとってつけたような印象は否めない。

本書序盤のハイライトは第6章である。 トムソンはクラウジウスとランキン――新たな仲間がもう一人――の仕事を受けて、二つの理論の調停に成功した(1850-51)。 彼の新しい理論は「物質的世界においてはすべてが前進的(progressive)である」(p. 101)という確信に基づいていたが、そうして構想された「エネルギーの原理は長老派の自然の摂理と完璧に適合していた」(p. 120)ということを著者は議論している。 加えて、トムソンは「前進的」という表現を出版された論文ではエネルギーの「散逸」(dissipation)に置き換えたが、著者はこの理由を、『創造の自然史の痕跡』(1844)以後のスコットランドにおける思想状況と結び付けて説明している。

仲間たち:ヘルムホルツ、ランキン、テート

第7章は、ヘルムホルツについて書かれた前半と、BAASにおけるエネルギーの科学の広がりについて書かれた後半に分かれる。 マイヤーやクラウジウスの時とは異なり、ヘルムホルツについてはその研究の背景などにもかなり立ち入って書かれている。 この特別扱いはおそらく、後者が前二者とは違ってトムソンの言わば協力者として振る舞うことになるためではないかと思われるが、それにしてもこの扱いの差には釈然としないものが残る。 また、後半では1851年から54年のBAAS会合が分析され、トムソン、ジュール、ランキンらの主張が存在感を増していく様子が描かれている。 これは、スコットランドからイギリス全体へと「エネルギーの科学」が拡大するプロセスとして位置付けられることになる。

第8章は既に何度か登場したランキンを主役に、クライドサイドの造船産業において熱力学の理論が実践に用いられ、地歩を固めていく様子(1851-59)が述べられる。 また、章の最後ではクラウジウスによる純理論的な熱力学の再構築が紹介されてイギリス北部の状況と対比されるが、ここでもクラウジウスの扱いはかなり簡単に済まされているという印象を受ける。

続く第9章では、「エネルギーの科学」にさらにもう一人の仲間、テートが加わる。 このテートとティンダルとの間で起こった、エネルギー保存則の先取権を誰に帰すべきかについての論争(1862-63)がこの章の話題である。 著者はこれを、アカデミックな世界における権威の確立を巡るものとして捉えている。 すなわち、「エネルギーの科学はケンブリッジ大学の強力な対抗改革プログラムを提供したのだが、それは[ティンダルらの推進する]科学的自然主義と真っ向から張り合いながらも、古くからの組織の内部における科学と神学との伝統的・公共的調和に脅威を与えないという重要な利点を持っていた」(p. 171)。

こうした「エネルギーの科学」の覇権の確立にとって極めて重要な役割を果たしたのが、第10章の主題であるトムソンとテートの『自然哲学論』(1867)だった。 そこで彼らが採った戦略は、「エネルギーの科学」をニュートンの『プリンキピア』の「正しい」読みとして提示することだった。 著者は、この本で展開されている理論についてこう主張する。

著者たち[トムソンとテート]による仕事とエネルギーを中心とした動力学の構成は、スコットランドの学問的・宗教的・産業的文化に根本的に依存していた。 それゆえ著者たちの選択には何ら自明ないし本質的なものはなかった。 動力学の定式化は他にも多く存在したが、これらは近代という時代の欲求に適さないとして意識的に却下されたのである。(p. 202)

既に何度も見てきたように、「エネルギーの科学」は「スコットランドの学問的・宗教的・産業的文化」に根差したものであったというのが本書の第一の主張である。

もう一人のスコットランド人:マクスウェル

本書終盤の中心人物はマクスウェルであり、第11章では彼の電磁気学研究が扱われる。 彼は、トムソンと同じく長老派の空気の中で独自のキリスト教思想を展開し、ジュールと同じく電磁気学研究を通して威信を得る範囲を拡大させていった。 最終的な到達点である『電気磁気論』(1873)の主目標は遠隔作用の拒否であり、マクスウェルはこのために力に代えてエネルギーを中心的な概念とした。

続いて第12章は、不可逆性を巡るマクスウェルの考察の展開を主題とする。 著者は、マクスウェルの長老派的な信条と熱力学第二法則の統計的解釈との結びつきについて論じ、それに共鳴する北イギリスの科学者たちとクラウジウスを筆頭とするドイツの理論物理学者たちとを対比させている。

第13章は話が変わって、電磁気学に関わる絶対単位系の設定が話題となる。 トムソンやマクスウェルを中心としてBAASの委員会で設定された単位系とそれに伴う測定器具、原器などによって、「エネルギーの科学」は国際的なレベルで威信を獲得することになったとされている。

最後の第14章は、マクスウェル没後の「エネルギーの科学」の変貌について述べている。 一方では、英米のマクスウェル主義者たちがエーテル中でのエネルギーの流れという概念を発展させていった。 他方ドイツでは、エネルギーを中心的な実体とするエネルギー論の立場が登場した。 ここに至って、「エネルギーの科学」はその創始者たちの手を離れていったのだった。

まとめ

初めの方で述べたように、本書にはおそらく三つの狙いがある。 しかし、そのいずれもが主題として重要なものであるのは確かだが、欲張りすぎたためにやや消化不良を起こしているような感がぬぐえない。

まず、エネルギー概念についての物理学史という観点からすれば、イギリスの状況に焦点を当てた本書の戦略は裏目に出ていると言わねばなるまい。 例外的にヘルムホルツについては詳しい説明があるが、同時代のドイツの状況(文化的なものにせよ物理学的なものにせよ)についてのまとまった説明がないため、学説史として見た場合にはこのことは不可避的に欠点とならざるを得ないのである。

次に、威信の獲得というテーマに関して言えば、スコットランドからイギリス全体へというところまでは比較的よくできていると感じられたものの、そこから国際的なところへ広がる件(第13章)は取ってつけたような印象を受ける。 このテーマを論じるのであればむしろ、イギリスにおいてトムソンやマクスウェルが果たした役割についての分析と平行して、ドイツにおける「エネルギーの科学」の広がり、特にヘルムホルツの仕事について述べるべきではないかと思われる。

これに対して、トムソンを中心とする「北イギリス」の科学者たちの活動がエンジニアリングへの関心とスコットランド長老派の信条によって規定されていたという主張に関しては、本書は大いに成功していると言っていいであろう。 ジュールはマンチェスターの人間だからスコットランドではないといった問題はここでは脇に置くとして、「エネルギーの科学」の立役者たち――トムソン兄弟、ジュール、ランキン、マクスウェル――がこの二つの問題意識をかなりの程度まで共有していたことはやはり注目に値する(この点では、テートはやや毛色が違うような印象を受けた)。 著者が折に触れて試みているドイツの人々との対比も、決して見込みのない試みではないであろう。 とは言え、それをするにはやはり、本書と同様の分析をドイツについても行うのが先決であると言わねばならない。

本書が試みているような、ある理論なり概念なりが特定の関心・特定の地域から出発して広まっていく過程を描くという手法は、物理学史に限らず科学の学説史を書く上での一つの手法として有効であるように思われる。 もっともそれが本来の効果を発揮するためには、本書はさらに内容を取捨選択すべきであっただろう。 だがそれでも、本書が19世紀の物理学史にとって欠かすことのできない一冊であることに違いはない。

2009/1/11 (C)N. Ariga
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