Terrall,The Man Who Flattened the Earth (2002)

Mary Terrall,
The Man Who Flattened the Earth:
Maupertuis and the Sciences in the Enlightenment
.
Chicago: University of Chicago Press, 2002.

今日のような職業的科学者が生まれたのは、一般に19世紀のことだと考えられている。 そしてそれよりもっと前、17世紀頃までは、科学の担い手はごく一部の知識人に限られていた。 ところが、その間に位置する18世紀においては、そのどちらでもない人々が存在する。 本書は、啓蒙の時代に一世を風靡した、一人の「科学人」(man of science)の肖像である。

モーペルテュイ、科学アカデミー会員となる

本書の主人公、モーペルテュイは、フランスのある港町で1698年に生まれた。 商人だった父は、16歳になった息子にパリで高等教育を受けさせることにし、 この街で青年モーペルテュイは将来を切り開いていくことになる。

モーペルテュイは哲学や数学を学んだが、当時の教育カリキュラムには 今日のような科学に関する科目はほとんど含まれていなかった。 にもかかわらず、彼はやがて(1723)、フランス最高の科学団体である 王立科学アカデミー会員の地位を手に入れることになる。

地方から出てきた一青年にそのような出世を可能にした最初の場所は、 当時パリに数多くあったカフェであった。カフェは最先端の社交場であり、 「田舎出のこうした若者にとっては、財産に関係なく、ウィットに富んだ人物や 美食家としての名声を確立するのに便利な場所」だったのである(p. 23)。

こうしてカフェで社交界デビューしたモーペルテュイは、 やがて上流階級の婦人たちが主宰するサロンに招かれるようになる。 この時代のパリのサロンは、文芸や思想についての会話や議論がなされ、 科学実験のデモンストレーションや世界各地の珍品の回覧なども行われる、 独特な文化を形作っていた。そして、こうしたサロンで得たコネクションが、 最終的にモーペルテュイを科学アカデミー会員に推薦したわけである。

もちろん、科学アカデミーに推薦されただけのことはあって、 モーペルテュイは科学的な研究をそれなりには行っていた。 だが彼は決して、歴史に名を残すような発見をしたり、優れた理論を作ったわけではない。 むしろ今日から見ると、彼はただ、世渡り上手な科学愛好家程度にしか見えない。 だが、そもそもこの時代には「科学者」が存在しないということを忘れてはならない。 むしろ、「サロン、カフェ、アカデミーの世界を通るモーペルテュイの軌跡は、 科学もまた会話とウィットの領域に属していたことを示している」のだ(p. 5)。

モーペルテュイ、ヨーロッパと科学の世界を巡る

アカデミー会員となったモーペルテュイは、当初数学を志した。 彼は最先端の数学であったライプニッツ流の無限小解析(今日の微積分の走り)を学ぶため、 スイスのバーゼルに住む数学者ヨハン・ベルヌーイのもとで約1年学んでいる(1729-30)。 そしてパリに戻った後は、ニュートンの万有引力理論を精力的に広めるのに貢献した。 ニュートン理論をフランスで流行らせるのに大きく貢献した18世紀最大の文筆家ヴォルテールも、 モーペルテュイをその第一人者と見ていた。

1730年代中頃には、モーペルテュイは今日のフィンランドにいた。 当時アカデミーで問題になっていた地球の形状に関する測地学の議論に関連して、 この土地で天文観測(それによって測量する)を行う探検隊のリーダーを務めたのである。 彼はこの結果から、地球は完全な球ではなく、極方向に少しつぶれていると結論付けた (本書のタイトル『地球を押しつぶした男』は、この出来事にちなんでいる)。 この探検と、それについて彼が書いた本のおかげでモーペルテュイの名声は一段と高まり、 彼はプロイセンのフリードリヒ大王から、当地のアカデミー総裁を打診される。 モーペルテュイは最終的にこれを受け入れ、1745年にベルリンに移り住んだ。

ベルリンでモーペルテュイは、神学と力学とを結びつけた独特な理論を展開した。 最小作用の原理と呼ばれるこの原理は、彼の名前が今日でも残っている数少ない例である。 そうかと思えば、彼は生命現象にも関心を持ち、動物の交雑実験を行って、 今日の進化論や遺伝学の先駆けのようにも見える主張を行ったりもしている。 しかし、国王から大いに庇護されていたにもかかわらず、 ベルリンのアカデミーではパリのような社会的成功を収めることはできなかった。 病気を患った彼はベルリンを去って療養のため諸国を回り、バーゼルで亡くなった(1759)。

このように、モーペルテュイは生涯を通じて、地理的にも学問的にも、 様々な領域を渡り歩いていた。だがそれにも拘わらず、 彼は終始一貫して、ある一つの世界の中で生きていたと言うことができる。 それは、「文芸の共和国」(Republic of Letters)である。

モーペルテュイ、読者に向けて本を書く

よく知られているように、18世紀のフランスでは、様々な出版物が溢れていた。 この時代においては、「社交的である(sociable)ということは、とりわけ、 本やその著者、その反対者や支持者、付随するスキャンダルについて、 会話を交わしたり文通したりすることを意味した」(p. 5)のであり、 「科学人」たるモーペルテュイもその例外ではなかった。

モーペルテュイは、自らの科学的研究を、様々な形態で発表した。 科学アカデミーの論文以外に彼は多くの本を書き、それぞれ出版方法に策略があった。 例えば、地球の形状についての論争で彼が論敵を攻撃した本は、 匿名で、しかも出版地と出版年すら偽って出された。 あるいは、おそらく彼が人生の到達点と見なしていた『宇宙についてのエセー』(1750)は、 謹呈する相手によって、紙質や用いる活字の形を変えて印刷された。 また、評判を集めるためにわざと少ない部数しか本を印刷せず、 それによって希少価値を高めることもあった。

著者は、モーペルテュイのこうした様々な戦略を詳細に描き出すことで、 彼が常に意識していた、読者としての大衆の存在を浮かび上がらせている。 すなわち、彼は決してごく内輪の組織内で研究を行ったのでもなければ、 すべての一般の人々を相手にしていたわけでもなく、むしろそれは、 「挑発的な鋭さをもって科学や哲学を読んだり議論したいと思っている 流行に敏感な知的エリートに向けられていた」(p. 368)のである。 したがって、このような科学はむしろ、「啓蒙された文芸的自然哲学」 (the enlightened literary natural philosophy, p. 12)と呼ぶのが適当かもしれない。

結論

18世紀の科学的探究に携わった全ての人が、モーペルテュイのような 「科学人」だったわけではない。だが、フランスでニュートンを広めるのに ほとんど素人同然のヴォルテールが大きな影響を持ったことから推察されるように、 この時代の科学を考える上で、「科学人」を視野の外に置くことはできない。 この意味で、著者がこうした「科学人」の立ち居振る舞いを明らかにし、 当時の主要な科学的問題をその文脈に乗せて示して見せたことは大きい。

ただし、この著作でモーペルテュイについて論じられたことが、 その他の人々にまでどの程度当てはまるのかについては不明である。 とりわけ、パリに典型的に見られるような社交的な科学の体制が他の諸都市においても 存在していたかどうかという問題は、啓蒙主義研究の観点からも興味深いと思われる。 この点については、本書と類似した比較研究が必要と思われるが、 著者は夥しい量の書簡や文献を資料としており、これに並ぶのは相当困難であろう。 本書は、啓蒙主義の歴史研究と科学史との交差点に位置する労作である。

2007/2/17 (C)N. Ariga
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