山本『熱学思想の史的展開』(2008-2009)

山本義隆
『熱学思想の史的展開:熱とエントロピー(1, 2, 3)』(ちくま学芸文庫)
東京:筑摩書房,2008-2009年.

[1987年に現代数学社より出版された本の文庫化(事実上の第二版).]

1987年に出された単行本が、このたび文庫版として出版された。 と言っても単に文庫になっただけではなく、いくつかの節が追加されたり新たに文献を参照したりといった変更点が随所にあり、事実上の第二版と言える内容になっている。 文庫で全三巻、計1,200頁を越える長編であり、取り上げられている文献も一次史料・二次文献ともに非常に豊富である。 これだけの文献を当たって一つの本にまとめてくる著者の力量には、毎度のことながら感心してしまう。 だがそれにもかかわらず――あるいはまさにその故に――、本書をどのように評価するべきかはなかなか難しい。 それは一つには本書全体を貫く主題が不在であるという点に、そしてもう一つにはこれが本職の科学史家によって書かれた著作ではないという事実によっている。

熱量学から熱力学へ

本書は、主に18世紀と19世紀を中心として、熱をめぐる自然科学(自然哲学)の発展をたどったものである。 最終的なゴールは熱力学第三法則の成立に設定されており、この長大な物語が熱力学という理論体系の確立を見据えて語られていることは明らかだが、本書の記述は決してホイッグ主義的な(現在から見て「正しい」ものだけを拾い上げていく)それではない。 実際、六部からなる本書全体のうちの半分は、古典熱力学に先立つ「解析的熱量学」の成立と展開、さらにそれに先立つ熱素概念の成立を問題にしている。 以下簡単に、本書の描くその歴史的展開をまとめておこう。

まず第1部では、17世紀における温度計の登場と機械論哲学の興隆について述べた後、この機械論的世界像の行き詰まりとその代替である動力学的世界像への転換について述べられている。 具体的には、ニュートンの<エーテル>、ヘールズの<空気>、ブールハーヴェの<火>(これは第2部に含まれているが、実質的には第1部と連続している)といった概念が取り上げられることになる。 一言でまとめれば、機械論哲学がさまざまな自然現象を通常の物質粒子の延長と運動に還元したのに対し、18世紀に現れたのは熱や電気といった現象を説明するのに特殊な粒子を導入する立場(物在論)への転回であったと言える。 ただしこれは機械論哲学以前の状況への単なる逆戻りではなく、それが「定量的」なものであった点を著者は強調している。

こうした背景のもと、18世紀の後半になって、熱の性質を物質化した存在として熱素が考えられるようになる。 第二部はこの熱素の理論の成立と展開を、スコットランドのカレンとブラック、その後継となるクレグホンとアーヴィン、およびフランスのラヴォワジエに即して概観する。 著者は特にカレンによる問題設定を高く評価し、またブラックによって温度と熱量の概念が成立したと主張する。 さらに、特に比熱(熱容量)と断熱変化の捉え方をめぐって、同じ熱素説にも二つのヴァリエーション(著者は「比熱・潜熱パラダイム」と「比熱変化パラダイム」と名付けている)があったことが解説されている。

第三部では、ラプラスを始めとする19世紀初頭の「解析的熱量学」の成立とその当時の状況が取り上げられる。 熱素説の数学的定式化とも言えそうなこの理論は、さまざまな実験結果(ただし誤っているものもあったが)を少なくとも表面的にはうまく説明するものであった。 著者は併せて、いわゆる「ランフォード神話」について一章を割き、当時の「熱運動説」がほとんど非力なものであったことを議論している。 要するに、熱素説が当時主流派だったのはそれほど不合理なことでもなかったわけである。

こうした状況の中で、カルノーは全く新しい問題を提起した、と著者は見る。 そしてまさにこの理由で、熱力学はカルノーの論文によって「九分通り土台が作られたと言っても過言ではない」とされる(第2巻、169頁)。 第四部は実質的に、その主張の意味するところを詳細に論じることに費やされており、私の見るところでは、本書全体の中で最も優れた分析になっていると思われる。 とりわけ、著者がカルノーとジュールやマイヤーとを対比させ、問題は熱の特殊性にこだわるかそれを捨象するかという点であったという見方を提示しているのは白眉と言うべきであろう。 「本質的な問題は、他のエネルギーにたいする熱の特殊性を出発点とするカルノーと、エネルギー変換の普遍性すなわち熱と他のエネルギー形態の均質性を出発点とするジュールの対立であった」のである(第2巻、407頁)。

この、熱の普遍性と特殊性という一見相反する二つの側面が、熱力学の二つの法則を構成する。 第五部で論じられるのは、この二つの法則がクラウジウスとトムソンによって確立される経緯である。 ここでは特に、クラウジウスが理想気体と飽和蒸気という二種類の問題を議論したことに注意が向けられ、特に後者の問題の意義を論じている点が目を引く。 またトムソンに関しては、物質によらない温度目盛としての「絶対温度」の探求を併せて解説し、クラウジウスとの問題意識の違いを明確にしている。 ただ、このあたりまで来ると当時の議論が現代のものとかなり近くなってくることもあり、著者が当事者たちの議論を紹介しているのか現代の熱力学の解説をしているのかが判然としない部分が増えてくるのが難点である。

最後の第六部は、その後の熱力学体系の確立に充てられている。 まずクラウジウスによってエントロピー概念が導入されて(誤解されつつ)普及していく経緯を、次いでエネルギーとエントロピーを中心に据えた熱力学体系がギブスによって確立される過程を概観し、最後にネルンストとプランクによる第三法則の確立(エントロピー概念の最終的な確定)について論じられる。 こうして、熱力学の体系はその完成を見た。

本書の主題とオリジナリティ

以上の簡単なまとめからも窺えるように、本書には極めて多くの論点が含まれている。 上で触れた、定量化、動力学的世界像、二つの熱素説、熱の普遍性と特殊性などの他にも、随所で著者独自の視点からのコメントがなされている。 これらの論点は、そのすべてが著者のオリジナルというわけではないだろうが、いずれも重要であり、検討に値すべきものであろう。 しかしながらここで考えてみたいのは、本書全体を貫く主題はそれでは何であるのか、言い換えればこれは何についての話なのか、という点である。

著者は前書きと最終章において、「汎熱的世界像」ないし「熱的地球像・熱的自然観」なるものについて語っている。 それによれば、18世紀から19世紀にかけて熱学を論じた人々はみな、自然現象を駆動する原動力として熱を捉えており、熱学による地球の理解を目指していたのだという。 本書の第一部が熱力学の理論体系とはずいぶん遠いところから始まっているのはおそらく、汎熱的世界像なるものが機械論的世界像に対する代案として登場してきたということを主張するためであったように思われる。

私としては、この時代の熱学がそうした世界像や地球理解と結びついていたということ自体は興味深い指摘であり、また大いにありうることだと考えている。 しかし、もしそうした汎熱的世界像を明らかにすることが著者の目的だったとすれば、その試みは成功していないと言わざるを得ない。 著者は「熱素理論は、たんに実験室規模での化学変化や相変化だけを問題としていたのではなく、現代風に言えば地質学・気象学・海洋学・水文学を含む地球上の生命活動・物質変化・物質循環全般を問題として生まれたのである」と書いているが(第3巻、320頁)、本書で実際に取り上げられているのはほとんどが「実験室規模での化学変化や相変化」なのである。 これはおそらく、本当は順番が逆で、熱力学の理論的・概念的起源を調べているうちに汎熱的世界像なるものの存在に気付いて最後にそれについて書き足したというのが真相であろう。 本書が雑誌の連載記事を元にしているという事情を考えると本論と結論の乖離は仕方ないのかもしれないが、これだけの長編で主題が不在であるというのはやはり居心地が悪い。

ところで、本書は『熱学思想の史的展開』と題されている。 一見何でもないようだが、私はこの表題が非常に気になっている。 と言うのは、そもそも「熱学」というものが歴史上存在していたようには思えないからである。 実際、著者自身がところどころで触れているように、17世紀から19世紀初頭に至るまでは機械論的世界像の下であれ動力学的世界像の下であれ、熱は光や電気といったその他の現象とセットで語られることが多かった。 また、カレンやブラックが熱を問題にしたのは化学の文脈においてであるが、「解析的熱量学」はラプラスを筆頭とする数理物理学のプログラムの一部であった。 つまり、熱について研究する熱学という学問分野が一貫してあったわけではなく、熱学という一つのカテゴリー自体が現代の観点から設定した枠組みではないかと思えるのである。

そうであるとすれば本書は、熱学というものが先にあってその歴史を述べているのではなく、歴史を語ることによって熱学というカテゴリーを構築していることにならないだろうか。 著者がそこまで意識しているかどうかは不明だが、本書には実際そういう側面がある。 著者は随所で、熱力学の「本質」を取り出し、読者に提示しようとしている。 先に触れた、第一法則と第二法則が熱の普遍性と特殊性を表すという見方はその一例と言っていいであろう。 そして私自身、そうした著者の議論から学んだ点は確かに多い。

私の見るところ、本書のオリジナリティは、(現代の)熱力学に対する深い理解を生かして過去の著作に鋭い読みを与えているという点にある。 そうした態度が必ずしもホイッグ主義につながるものではないことは、本書がよく示している通りである。 ただ本書の場合、その強みが全編を通して発揮されているわけではない。 特に、熱力学との距離が大きい18世紀以前の話をしている間は、先行研究に負う部分がかなり大きいように感じられた。 もっとも、オリジナリティの有る無しとは別の次元で、本書が全体として優れた概説になっているということには疑問の余地がない。 これだけ膨大な量の文献を当たり、これだけ長大でかつ分かりやすいものを書けるというのは、本職の科学史家でも稀であろう――だがそれでは、(狭義の)科学史家の役目は一体何なのだろうか?

科学史家は何をするべきか?

著者は科学史の専門教育を受けた人物ではなく、科学史を看板に掲げる研究者でもない。 言わば科学史の「外側」の人間である。 そうした人物がこれほどの著作を書くことができ、現に多くの読者を獲得しているという事実に対し、科学史の「内側」にいる私はどう反応すべきだろうか。 本書を読みながらずっと考えていたのはこのことである。

確かに、歴史書として見た場合、本書の記述には欠点もある。 二次文献の引用の仕方に疑問を感じた箇所もいくらかあったが、最も気になったのは、影響関係の評価が甘いという点である。 たとえば著者はカレンについて論じた箇所で、その講義ノートの内容を引用した後、 「マクローリンとヒュームの影響は、あらためて指摘するまでもなかろう」と書いている(第1巻、261頁)。 しかしながら本書では単にそれぞれの人物の著作を比較しているだけであり、ヒュームとの関係については二次文献を引いて紹介しているものの、マクローリンについてはカレンが本当にそれを読んでいたのかどうかや、読んでいたとしても影響を受けたのがそこからであったのかどうか(別の第三者からという可能性はないのか)といった点には触れられていない。 概して、本書で「影響」について言われている箇所の大部分は単にテクストの類似性にしか基づいておらず、その裏付けに乏しいように感じられた。 だが、こうした細かい点を指摘するだけでは、科学史の「内側」からの反応としては迫力に欠けるであろう。

結論を言えば、本書に内在する限界を見定め、それを超えるようなものを書くことが必要ではないかと思われる。 限界とはこの場合、本書の表題になっている「熱学」それ自体である。 本書は熱力学の体系を出発点として書かれており、そのことが本書で取り上げられる題材をある程度まで規定している。 ところが本書の強みはまさに、現代の枠組みを効果的に生かしているという点にあった。 したがって必然的に、本書は現代の観点から規定された「熱学」を超えることができないということになる。

しかし実際には、熱は歴史上、今日とは異なるさまざまなカテゴリーの中で議論されていた。 そして現代の体系を出発点とする限り、こうした過去のカテゴリーを適確に把握するのは極めて難しい。 おそらく、今日では見失われているカテゴリーを再構築して提示するのに必要なのは、過去の特定の時代状況に対する言わば親しさであろう。 そしてその親しさは、科学史を専門としているという事実、つまり多くの時間を史料や研究書とともに過ごしているということによってしか培われないのではないかと私には思われる――もっとも、著者はすでに相当の時間をそうやって過ごしており、現代を離れて過去それ自体を論じることができるまでになっているようではあるのだが(著者の近年の著作はそういう傾向にある)。

現代を底辺として過去へとカテゴリーを押し拡げることと、過去の只中にカテゴリーを構築することとは、相補的であるのかもしれない。 前者には超えられない限界を後者は超えていくし、おそらくその逆もまた然りである。 その意味では、本書はこれからも、その重要性を持ち続けるであろう。 ただ、著者が「熱学」を記述することを通してその存在に気付いた「汎熱的世界像」なるものをきちんと再構築してみせることは、(狭義の)科学史家の仕事として残されていると見るべきである。

2009/4/18 (C)N. Ariga
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