革命の出版:コペルニクスの地動説

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天文学との邂逅

ポーランド最長の河川、ヴィスワ川の中流に位置する街トルンは、ハンザ同盟の一翼を担う都市として、15世紀半ばには大いに繁栄していた。コペルニクスはこの街で、1473年の2月19日に生を受けたと考えられている。

裕福な商人階級の家庭だったが、10歳の頃に父親が亡くなったため、その後は母方の伯父に育てられた。後見人となったこの伯父は、極めて厳格で高圧的な人物だったと伝えられている。世渡りにも長けていた。教会法の学位を取った後、教会組織の中で出世し、1489年にはワーミアという地区の司教にまでなった。さらにこの伯父は、自らの支配力を保つため、教会組織の重要な役職を身内で固めようともした。こうしたわけで、コペルニクスと彼の兄は、勉強のためにクラクフの大学へと送られることになったのだった。

中世の大学というのは、一般教養にあたる哲学部と、神学・法学・医学という専門的な三つの上級学部からなっていることが多かった。聖職者と法律家と医者が特権的な職業であるのは、古今東西ほぼ同じ現象らしい。ちなみに、大学といっても現代のようにキャンパスがあるわけではない。universitas(universityの語源)という言葉はもともと、教師や学生の組合のことを意味していた。だから、コペルニクスが「クラクフ大学へ行った」というのは、「クラクフの街にあった教師・学生の組合に登録して、どこかの家や教会などで行われたいくつかの講義を聞いた」という意味に理解する必要がある。

コペルニクスは22歳の頃までクラクフにいたらしいが、実際に何を勉強したのはよく分かっていない。だが、数学と天文学の講義――意外に思うかもしれないが、これらは当時、哲学部で教えられる「一般教養科目」だった――に興味を持ったのはおそらく間違いないだろう。

コペルニクスがこの時期に手に入れ、亡くなるまでずっと持っていた本がある。これは二冊の本と何枚かの白紙を綴じて一つにしたもので、白紙部分にはいくつかの重要なメモが書かれていた。そのメモについては後で触れることになるが、ひとまずはその本に注目してみよう。

二冊の本は、『アルフォンソ表』(ヴェネツィア、1492年刊)と『三角関数表』(アウグスブルク、1490年刊)というものである。どちらも、星の運行を計算するためのデータ・ブックだと考えてもらえばいいかと思う。このうち『アルフォンソ表』は、13世紀にカスティーリャ(スペイン)王アルフォンソ10世の命を受けて編纂された表で、好きな場所・時刻に惑星がどこにあるかを計算できる優れものだった。もう一つの『三角関数表』は15世紀最大の天文学者レギオモンタヌスの手によるもので、主に占星術の計算を手助けするためのものだが、西洋ラテン世界でおそらく初めてタンジェント(tan)の数値を載せた本でもある。どちらも17世紀前半まで繰り返し版を重ねており、天文学の分野のベストセラーだったと言っていい。

この二冊の本からも察しが付くように、当時の天文学というのは、何よりもまず星(惑星)がいつどの位置にある(あった)かを計算する学問だった。なぜそんな計算が必要かと言えば、それは暦を作るためでもあり、また占星術のためでもある。私たちは「天文学」と聞くと、巨大な望遠鏡で星を観測したり、宇宙の構造や成り立ちを物理法則によって解明したりといったことを思い浮かべるけれども、この時代の天文学にそういった雰囲気はまったくない。コペルニクスは、確かに天文学の分野で歴史に残る業績を挙げたのだが、惑星の間に働く引力の法則も知らなかったし、望遠鏡で星を見たことすらなかった――そもそもこの時代にはまだ、望遠鏡が発明されていないのだ! コペルニクスが夢中になったのは、ほかでもない、星の運行の「計算」だった。いまの感覚からすれば、それは天文学というよりもむしろ、数学という方がしっくりくるような世界である。

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2011/9/30 新装版
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