革命の出版:コペルニクスの地動説

天文学との邂逅【前へ】

イタリアにて

ボローニャ大学は1088年に創設されたヨーロッパ最古の大学で、特に法学分野の教育で歴史的にその名を知られている。コペルニクスは1496年の秋、23歳のときにイタリアにやってきてこの名門大学に登録し、法律の勉強を始めた。例の伯父がコペルニクスのために「司教座聖堂参事会員」という教会内部のポストを確保したため、教会法を学ぶ必要が生じたのだ。司教座聖堂参事会員というのは、司教――つまり彼の伯父――を補佐してその地区の行政・立法・司法全般の仕事を行う、総合官僚とでも呼べそうな職のことである。ちなみに伯父自身、ボローニャ大学で教会法の学位を取った後、参事会員のポストに就いていた。何のことはない、伯父はコペルニクス(とその兄)に、自分と同じ経歴を歩ませようとしたわけである。

だがコペルニクスは、このボローニャ留学中には教会法の学位を取らなかった。そしてその代わりに――と言ってよいかどうかは定かでないけれども――熱を上げたのが天文学だった。この時期のコペルニクスの活動については、いままさに彼の元へと向かっているレティクスが後年、こう語っている。

わが師であられるところの博士[=コペルニクス]は、ボローニャにおられたとき、極めて学識ある人物ドミニコ・マリア[=ボローニャ大学天文学教授]の、学生というよりはむしろ、助手かつ観測の証人でありました。さらにローマでは1500年頃、だいたい27歳でしたが、学生たちの大群の前で、また多くの人々に取り囲まれて、数学について教授されており、この種の学問には熟達しておられました。

これはさすがに誇張しすぎの感があるが、コペルニクスがこの時期にボローニャとローマでそれぞれ天文観測を行ったという記録は残っている。法学の勉強をしていながらも、数学と天文学の方にいっそう関心があったのは確かだろう。

翌1501年、コペルニクスは、今度はパドヴァにやってきた。この時代、ボローニャ大学が法学のメッカだったとすれば、パドヴァ大学は医学のエルサレムだ。コペルニクスはボローニャからいったん帰国して(!)留学延長の許可を得、再びイタリアまで(!)、今度は医学の勉強もしに来たのだ。もっとも僕としては、コペルニクスが留学を延長したのは単に天文学の勉強を続けたかったからではないかという気もするわけだが……。

ともかく、コペルニクスはパドヴァ大学で二年間学んだ後、1503年にフェラーラ大学で教会法の学位を取得して帰国した(結局、医学の学位は取っていない)。わざわざ別の大学を選んだのは、必要経費が少なくてすむからだったらしい。そしてこれ以降、コペルニクスは基本的にずっと、ワーミア司教区にとどまって一生を送ることになる。だが、話の舞台をワーミアに移す前に、当時のイタリアの状況についてもう少し話しておくことにしよう。何と言ってもこの時代、イタリアはルネサンスの最盛期を迎えていたのだから。

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2011/9/30 新装版
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