革命の出版:コペルニクスの地動説

イタリアにて【前へ】

プトレマイオス・リヴァイヴァル

ルネサンスと聞くと、なんといってもまず絵画や彫刻が思い浮かぶ。しかし科学にとっても、ルネサンスはとても重要な意味を持っていた。この時代になってようやく、古代ギリシアの文化・学問が詳しく研究されるようになったからだ。

古代ギリシアというのは今日でこそ、西洋のほとんどあらゆる学問(自然科学も含めて)の出発点と見なされている。だが実はルネサンスの時代になるまで、およそ千年以上もの間、西欧人は古代ギリシア科学の遺産をほとんど知らなかった。古代ギリシアの本格的な「発見」はだいたい12世紀頃に始まるのだが、そうした「発見」が爆発的に増えたのが、14世紀から16世紀にかけてのイタリア・ルネサンスの時代だったのである。

「発見」とは言っても、大昔の遺跡が発掘されたというような意味ではない。古代ギリシアの文化は、西欧ではほとんど忘れ去られてしまっていたが、東欧(東ローマ帝国)やアラビアの人々がその遺産を受け継ぎ、独自に発展させていた。西欧はそうした「先進的な」文化に遭遇し、それを翻訳して吸収することで、近代的な科学の基盤を作っていったのだ。コペルニクスがイタリアで目の当たりにしたのは、そうした古代の遺産が現在進行形で復興されつつある光景だった。

そうしたルネサンス真っ只中のイタリアに留学していただけのことはあって、コペルニクスもその間にギリシア語を学んだ。そして帰国後には、『教訓・田園・恋の書簡集』なるギリシア語の本を翻訳・出版することさえしている(1509年)。西欧では失われていたギリシア語の文献を研究し、学問用語であるラテン語に翻訳することが、当時の流行だった。もっとも、この本はせいぜい「手紙の書き方見本」のようなものであって、わざわざ訳すほどの価値はないらしいのだが……。

とはいえ、古代ギリシア(およびローマ)の復興というルネサンスの精神は、コペルニクスの天文学研究にとっても非常に重要な意味を持っている。古代ギリシア最大の天文学者プトレマイオスの著作も、西欧ではルネサンスの時代になってようやく、本格的に研究され始めたからだ。

プトレマイオスは、コペルニクスの時代から遡ること1200年以上前、紀元後2世紀に古代ギリシアの都市アレクサンドリア(現在はエジプトに位置する)で活躍した人物で、それまでの天文学理論を集大成した『数学的総合全13巻』を書いた。この本はそれから700年ほど後、9世紀になってアラビアの天文学者の注目を集めるようになり、アラビア語に翻訳される。その際、おそらくその内容があまりに凄かったからだろうと思うのだが、この本は『最大の書』と呼ばれた。そして、それからさらに300年が経った12世紀になってようやくラテン語に翻訳され、アラビア語の『最大の書』を音訳したタイトル、『アルマゲスト』の名で知られるようになった。

ラテン語版『アルマゲスト』は1515年に最初の印刷本が出版され、コペルニクスもこれを入手した。ところで、いま「最初の印刷本」と言ったけれども、グーテンベルクが金属活字による活版印刷を発明したのは1450年頃のことだ。それまで本というのは手で書き写すものだったのに、それから半世紀後にはもう、印刷された本が珍しくなくなっていたことになる。そういえば、コペルニクスは学生時代にすでに、二冊のデータ・ブックの印刷本を手に入れていた。ちょうど現代がインターネットの広く普及した時代であるように、コペルニクスは「印刷革命」の恩恵を十分に受けることのできた最も初期の世代に属していたのだ。

もっとも、最初の印刷本が出る前から、『アルマゲスト』は手書きの写本の段階で詳しく研究され、天文学者のあいだで広く知られるようになっていた。特に、コペルニクスの使っていた『三角関数表』の著者でもあるレギオモンタヌスは、直接イタリアまで旅して様々なギリシア語文献を入手し、それを徹底的に研究した。その成果は死後、『アルマゲスト綱要』として出版され(1496年)、この本はコペルニクスの愛読書となる。また、彼が集めた写本をもとにして、1538年にはついに、『アルマゲスト』のギリシア語原典が初めて出版された。実は、レティクスがコペルニクスへの手土産とした例の五冊の本のうち一冊が、このギリシア語版『アルマゲスト』なのだ。コペルニクスがそれを受け取ったら、さぞかし喜ぶことだろう。

さて、レティクスがやってくるまでには、まだ時間があるようだ。彼の到着を待つあいだに、『アルマゲスト』に書かれていた天文学理論とはどんなものなのか、簡単に説明しておくことにしたい。

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2011/9/30 新装版
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