革命の出版:コペルニクスの地動説

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『コメンタリオルス』

1503年にイタリアから帰国した後、コペルニクスは伯父の補佐役・兼・侍医として働くようになった。ところが七年後、コペルニクスは突然伯父の元を去り、フロムボルクに移住する。理由ははっきりしないが、官僚としてのキャリアを積むことを捨てて、天文学に時間を割く方を選んだのではないかと考えられている。実際、ほぼこの頃に、コペルニクスは新しい天文学理論を考えていたのだ。コペルニクスはその概要をまとめ、クラクフの天文学者たちに送った。『コメンタリオルス』(強いて訳せば『小論』)と呼ばれるこの手書きの論文こそ、コペルニクスが地動説を公表した最初の著作だった。

『コメンタリオルス』の序に当たる部分で、コペルニクスは、プトレマイオス流の周転円理論に反対の意を表明する。「なぜなら、それらの理論はさらにいくつかのエカント円を想定しなければ不十分であったし、こうした円のせいで、星は導円上においても固有の中心においても常に一様な速さで動くわけではないということが明白だったからである」。前に説明したように、エカントを使うと、惑星の回転するスピードは一定でなくなる。これがコペルニクスの目にはルール違反と映ったのだ。そこでコペルニクスは、「円たちのもっと合理的な配置」がないものかと考えた。つまり、一定の速度で円運動するというルールを破ることなく、惑星の動きをうまく説明できるような模型は作れないものかと考えたのだ。

その試行錯誤の跡は、コペルニクスの「ノート」に残っている。前にコペルニクスが持っていた二冊のデータ・ブックのことを話したとき、その二冊は白紙と一緒にバインドされていたと言ったのを覚えているだろうか。「ノート」と言ったのはその白紙のことで、そのうちの一枚に、『コメンタリオルス』以前に書かれたと見られるメモ書きがある。専門の科学史研究者によれば、その内容から読み取れるのはこういうことだ。「コペルニクスは「地球が動く」ことをまず仮定して探究を開始したのではない。『一様円運動の原理』に忠実であろうとして、周転円説の修正に手をつけたのである」(高橋『コペルニクス・天球回転論』184-5頁)。つまり、地球が動くというアイディアは、プトレマイオス流の天文学理論を修正しようとした結果だったというのである。

実を言うと、コペルニクス以前にも、同じようなことを考えた人々がいた。それは13世紀から14世紀にかけて活躍したアラビアの天文学者の一派で、科学史業界では「マラーガ学派」と呼ばれている。この人たちもやはり、一定の速度での円運動ということを重視してプトレマイオスを批判し、その理論に手の込んだ修正を加えた。詳しいことは省くけれども、エカントの代わりに別の円をいくつか加えて、それでもってエカントと同じような機構を再現したのだ。そして面白いことに、この学派の考案した理論は、コペルニクスのものとそっくりなのである――ただ一点、地球が動くということを除いて。

マラーガ学派の理論がコペルニクスに影響を与えていたという明確な物的証拠は、今のところ挙がっていない。一説には、アラビアの天文学理論がビザンツ帝国を経由してイタリアに伝わり、留学中のコペルニクスの知るところとなったのではないかとも言われているが、はっきりしたことは言えない。個人的には、地動説がコペルニクスの完全な独創だったとするより、アラビアの先人たちから受け継いだ理論を発展させた結果だったと考えるほうがロマンチックでいいなあと思う。が、アラビア天文学とコペルニクスの関係をどう考えるべきかについては、専門家のあいだでもまだ結論が出ていないようだ。

話を『コメンタリオルス』に戻そう。この小論は印刷こそされなかったけれども、天文学者たちの間ではかなり評判になったらしい。当然、コピー機などない時代だから、興味を持った人はそれを手書きで書き写す。そしてまた別の人に送る。こうしてコペルニクスのアイディアは、少しずつ、口コミに近い形で広まっていった。レティクスがコペルニクスのことを耳にしたのもその結果だったし、それより五年ほど前の1533年には、ローマ・カトリックの秘書官が教皇にコペルニクスの考えを説明したという記録さえ残っている。

ちなみに教会側はこのとき、別に何の措置も取っていない。地動説はキリスト教会によって弾圧されたというイメージがあるかもしれないが、教会が地動説を問題視するようになるのは実は、コペルニクスから何十年も後のことなのだ。しかしその話はまた、別の機会にすることにしたい。

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2011/9/30 新装版
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