革命の出版:コペルニクスの地動説

『コメンタリオルス』【前へ】

多忙な日々、地味な仕事

『コメンタリオルス』から数年後の1514年、ローマ教皇庁では教会の暦の改革が議論に上っていた。教皇はヨーロッパ中の天文学者に意見を出すよう求め、当時四十歳くらいだったコペルニクスにも、その依頼があった。このエピソードは、コペルニクスがすでに天文学者としてその名を知られていたことを示している――公に本や論文を出版したことがないにもかかわらず!――けれども、実のところコペルニクスは、決して天文学に専念していたわけではない。

この依頼のあった二年前、司教だった例の伯父が突然亡くなっていた。ほとんど彼の力量によって治められていたワーミアは政治的に厳しい状態に追い込まれ、1520年にはついに隣国と戦争状態になった。コペルニクスはどうしていたかと言うと、なんと戦争が終わるまでの五年間、ワーミアの中枢で戦闘の指揮に携わり、一時は司教代理という事実上のトップの職責も果たしていた。それでも何度か天文観測を行ったりはしていたようだが、こんな状況で研究に集中できたとは想像できない。

戦争が終わっても、コペルニクスは参事会員という総合官僚職の仕事で忙しく、経済政策などに関わっていた。それだけでなく、イタリアで学んだ医学の知識を使って、医者としても活動していた。コペルニクスはこうした多忙な日々を過ごしつつ、空いた時間を使って天文学研究をしていたらしい。

残念ながら、コペルニクスの研究が『コメンタリオルス』以降、どのように進展したのかはよくわからない。その後およそ三十年の間に書かれた天文学関係のものは、ヴェルナーという天文学者の本について批判的にコメントした書簡しか知られていない。そしてその書簡を見ても、肝心のコペルニクス自身の説については「別のところで説明しようと思っています」と書かれているだけだ。それ以外にわかっているのは、自分の理論に必要なデータを集めるために何度か天文観測を行ったということと、1535年頃には理論の主な部分がだいたいできていたらしいということくらいでしかない。

もちろん、動く地球というアイディアはとっくにコペルニクスの頭の中にあったし、『コメンタリオルス』で仲間内には公表していた。けれども、惑星の位置の計算を仕事とする天文学の世界では、動く地球という装置を使って精確な計算結果を出せなければ意味がなかった。コペルニクスが多忙な日々の合間を縫って二十年以上もかけて取り組んでいたのは、観測データと合うように円の組み合わせ方を微妙に修正するという、何とも地味な仕事だったのだ。率直に言わせてもらうと、コペルニクスがここで何か革命的なことをしているという印象は全くない。プトレマイオス以来の伝統的な天文学――円をうまく組み合わせて惑星の動きを再現するという一種の数学、あるいはむしろパズル――に、ちょっとした工夫を付け加えただけにしか思えないのだ。

だがそれでも、問題は、その工夫が「ちょっとした」程度では済まされないようなものだったことにある。誰がどう考えてみても、僕たちの立っているこの地球が動いているとは到底信じられないではないか! なるほど、『コメンタリオルス』の中では、円の説明が地動説の重要な論証になるのだと書かれていた。だが、地球が動いていると考えればうまく説明ができると言われたところで、地球が動いていると納得できるわけではないだろう。

コペルニクス自身、自分の理論が人々に受け入れてもらえるという自信はなかなか持てなかった。最終的に出版された本の中でも、「見解の新奇さと不条理さのゆえに軽蔑されるのを恐れて、企てた著述を全く中止してしまおうかと思ったほどでした」と告白しているくらいなのだ。だから――もちろんほかにも理由はあるだろうが――ようやくのことで理論がほぼ完成し、原稿も書きためていたのに、コペルニクスはそれを出版しようとしなかった。

そうこうしているうちに、時は流れて1539年の5月を迎える。コペルニクスのところに、一人の若者がやってきた。レティクスの到着である。

出版への道のり【次へ】
一番初めに戻る
2011/9/30 新装版
(C)ARIGA Nobumichi