革命の出版:コペルニクスの地動説

多忙な日々、地味な仕事【前へ】

出版への道のり

レティクスがコペルニクスのもとを訪れたとき、コペルニクスはすでに六十代も半ばを過ぎていた。この老人と若者のあいだでどんなやりとりが交わされたのかは、想像するよりほかにない。ただ、到着後およそ四ヶ月でコペルニクスの原稿を(全部ではないが)読み、その理論をほぼマスターして、レティクスがコペルニクスの最初の――かつ唯一の――弟子になったことは確かである。とすれば、長年にわたって一人で地道に研究を続けてきた老人が、遠方からやってきたこの若者を大いに歓迎したのは間違いないだろう。

レティクスは師の天文学理論を学んだだけでなく、その概要を本にまとめ、翌年春に『第一解説』と題して出版した。この本は、出版物としてコペルニクスの説を初めて解説したもので、地動説に対する人々の反応をうかがう観測気球の役目を果たした。幸い、コペルニクスの心配をよそに反応は上々で、早くも翌年には再版されている。ちなみに、レティクスはもともと『第二解説』の執筆も予定していたのだが、これは結局書かれなかった。いや、もしかすると、書く必要がなくなったと言うべきなのかもしれない。レティクスの助けを借りて、ついにコペルニクス本人が、自分の本を印刷に回すべく原稿の改訂作業を始めたのだ。

当たり前のことだが、どんなに素晴らしいアイディアだろうと、公表されなければ世界を動かすことはない。その意味で、レティクスの仕事はとても重要だった。いや、レティクスだけではない。コペルニクスの理論が世に出るまでには、他にも様々な人が関わっている。

たとえば、出版された本の中でコペルニクス自身が「大親友」と呼んでいるギーゼ司教。彼は、新しい天文学理論を出版するよう強く促した一人だった。レティクスが『第一解説』の中で語っているところによれば、どうやらコペルニクスはもともと「プトレマイオスよりもむしろアルフォンソ表を真似て」、自分の理論そのものの内容を出版するのではなく、それに基づいて算出したデータ・ブックを出版しようと考えていたらしい。だがギーゼはそれでは不十分だと主張し、ついに説得に成功したのだという。

それから僕としては、本の出版を請け負った書籍商ペトレイウスの気概も大いに評価すべきだと思う。この人物は、学問を非常に価値あるものと考えて多くの学術書の出版を手がけただけでなく、自分が印刷所を営むニュルンベルクの街が優れた学者を数多く輩出していることを誇りに思っていた。「およそ良いものはここからほとんど全世界へと輸出されるのですから、[優れた学者の著作が]ここから全世界に向かって出版されるのを何が妨げたりするでしょうか。実のところ、私はこの点で我が街から賞賛を受けるに値すると信じております[…]」。フロムボルク滞在中のレティクスに宛てた手紙にこう書かれているのを見るとき、僕は、コペルニクスの本は決して著者一人の手によって世に出たのではないことを実感するのだ。

かくして、1542年の5月頃、つまりコペルニクスのもとにやってきてからほぼ三年後に、レティクスは師の原稿を持ってニュルンベルクへと戻ってきた。早速ペトレイウスのところで印刷作業が始まり、レティクスがその監督にあたった。しかし、レティクスは秋から別の街の大学で教えなければならなかったので、知人の神学者オジアンダーに後を託した。そして、年は変わって1543年の初頭、ついにコペルニクスの主著『天球回転論』が出版された。

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2011/9/30 新装版
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